「立国は私なり 公に非ざるなり」のこと

 

 「立国は私なり。公に非ざるなり。」は福沢諭吉先生の「痩我慢の説」の冒頭に書かれている言葉である。このことについて書いておこうと思う。

 先生がこの文章を明治34年1月に時事新報に公表されたのは、先生長逝の1か月前であったという。書かれたのはその10年前で、旧幕臣中の勝安芳、榎本武楊等の維新後の進退についての先生の心の内を書き、その草稿を両人らに贈ってその意見を求めたものを公表されたのだと富田正文先生らによって解説されていた。私にとっては昭和12年に岩波から出版された「福沢文選」の中にあった文をみてから心に残っていた言葉であった。

  文章の冒頭に出てくる言葉は、著者の思いが込められていると思う。

 「公」といい「私」といい、その解釈は難しい言葉であるが、今まで私自身つみのこしてきた問題、「public」(パブリック)と関係ある問題と意識していた。

 この言葉については多くの方が論じていると思うが、最近耳に入ってきたことといえば、久しぶりに細川元首相の声がラジオの深夜放送からであった。

 細川元首相に関する話題としては、「人はいつから大人になるか」に書いたことがあるが、首相辞意の表明があったのが「新衛会」があったときで、今どうしているかと思っていた時に声が聞こえてきたのであった。

 元首相が福沢諭吉が「立国は私なり・・・」といっていると喋ったとき、どのようにこの言葉を考えているかと思った。私には、ちょっと、はきすてるようにいっているように聞こえたのであったが、責任のある方なのに・・・、と心に聞いたのであった。

 

 「地球面の人類その数億のみならず、山海天然の境界に隔られて各処に群をなし各処に相分るるは止むを得ずと雖も、各処のおのおの衣食の富源あれば之に依って生活を遂ぐ可し。」で文章がはじまっている。

 これは先生の地球上の人々に関する考えがうかがわれたが、今読み直してみると私が衛生学を担当して人々に考えたことと同じであるなと思う。

 その人々が・・・「有余不足あらんには互いに之を交易するも可なり」は貿易をさすのだなと読んだ。

 「何ぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須ひえんや」・・・ 「隣国と境界を争い・・」「隣の不幸を顧みずして自から利せん・・・」

 「況んや其国に一個の首領を立て、之を君として仰ぎ之を主として事へ、其君主の為に衆人の生命財産を空うするが如きに於いてをや」・・・

 「是れ人間の私情に生じたることにして天然の公道に非ずといえども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに・・・」と書いている。

 現実の世の中はこの「私情」によって、いろいろの国ができ、争いがあると考えており、ここに「私」と「公」についての先生の考え方がうかがわれる。

 「忠君愛国等の名を以てして国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ」とも書いているのは、当時よく書けたなと思う。後日問題になったのではなかったか。

 ところがつづいて「故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情に於ては之を称して美徳と云わざるを得ず。即ち哲学の私情は立国の公道にして、此公道公徳の公認せられるは・・・」と述べている。云わざるを得ずとは先生の現実論的な考え方がうかがえる。

 この人情について「父母の大病に回復の望みなしとは知りながらも実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるが如し」と身近な例を述べている。

 「されば自国の衰頽に際し敵に対して固より、勝算なき場合にても、千苦満苦、力のあらん限りを尽くし、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を講ずるか若しくば死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称す可きものなり。即ち俗に云う痩我慢なれども、強弱相田対して苟も弱者の地位を保つものは単に此痩我慢に依らざるはなし」とまとめ、国内・世界の例を示している。

 先に「文明論之概略」の中で、日本の国体にふれ、自国の独立を論じた流れが伺われる。

 ここに先生の「痩我慢の説」の標題の意味が理解されたが、「然るにまことに遺憾なるは・・・今をさること廿余年、王政維新の事起りて、その際不幸にも此大切なる痩我慢の一大義を害したることあり」と勝・榎本氏の例をあげて論じている文章であった。

 「以上の立論は我輩が勝榎本の二氏に向て攻撃を試みたるに非ず。・・・凡そ人生の行路に富貴を取れば功名を失い、功名を全うせんとするときは富貴を棄てざるの場合あり。・・・兎に角に明治年間の此文字を記して二氏を論評したる者ありと云えば、亦以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆亦徒労に非ざるなり。」と結んでいる。

 先生は亡くなる前に書き残しておきたかったのであろう。勝榎本両氏がどのような返事をだしたか、感想をもったかは分からない。

 今から100年前のようやくご維新のあと日本も独立し、「大日本帝国」となって国際的におつきあいし始めた時期を考えなくてはいけないと思う。その時代の先生なりの「私」なり「公」であったのではないのか。

 このあと自分がどう考えるか、現在の諸問題と絡めて考えることが多いが、まだまとまっていないので次ぎの機会にする。(20050806)

弘前市医師会報,11巻6号,310,47−48,平成18.12.15

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