記憶に残る雑誌(1)

自分が書いた文章とか講演した話がいわゆる図書として発刊されたことについては「記録・図書」についてまとめた。

ここでは自分が書いた論文とか講演した話がいわゆる雑誌といわれるものに印刷されたものを中心に書いておこうと思う。

(1)として昭和40年在外研究へ出張するまで。

慶應義塾大学医学部衛生学教室の助手として研究生活に入って学位論文を書ける段階になって書いた論文は「血球素に対する酸素と一酸化炭素の親和力についての研究(I)(II)」(労働科学, 28(1), 46-53, 昭27)(労働科学, 28(2), 98-104, 昭27)であるが、最も記憶にある論文である。いわゆる原著論文である

「労働科学」にはその他「某硫安工場におけるCO中毒の実態調査」(28, 539, 昭27)「ピロタンニン酸法(一酸化炭素ヘモグロビン定量法)について」(28, 579, 昭27)などの論文が「学会報告」と共に掲載されている。

「医学と生物学」という速報雑誌があった。国際的にも知られているということで、「CO検知管を用いる血中COHb飽和度の簡易測定法」(医学と生物学, 34(3), 104-106, 昭30)など報告した。弘前へ移ってからもこの速報にはよく投稿した。

昭和29年に弘前に赴任してからもっともよく利用したのは弘前大学医学部紀要である「弘前医学」である。その他のものを含めて教室での論文は「弘前大学医学部衛生学教室業績集」として全国関係方面へ送付した。高橋英次先生が第1巻、そのあと第2巻から停年までの第12巻を発刊し、菅原和夫教授に引き継がれた。

所属専門学会(日本衛生学会、日本民族衛生学会、日本公衆衛生学会、日本産業衛生学会、日本学校保健学会、ほか)の年次総会および東北地方会などの学会報告の抄録はそれぞれの機関誌に掲載されている。

   

「日本公衆衛生雑誌」が日本公衆衛生協会から刊行されることになり、弘前での最初の研究「リンゴ園におけるパラチオン剤散布の実態と中毒予防について」(日本公衛誌,1(9),400-403,昭29)を投稿し掲載された。それ以後多くの研究論文を投稿した。

「日本医事新報」には「高血圧殊に脳卒中の原因における住生活の役割」(高橋英次・佐々木直亮・武田壌寿・伊藤弘:日本医事新報, No.1629、27-31, 昭30)が最初である。その後「新春特集炉辺閑話」および「緑蔭随筆」によく投稿している。

弘前市教育委員会発行の指導年報「弘前教育」(1955)に「第3節 健康教育」「われわれの生活からみた健康問題」(pp192-196)の依頼原稿が記録された。

医学書院発刊の「総合医学」に「生活環境中の一酸化炭素存在の認識」(Vol.14, No.11, 943-948, 1957)、「食塩摂取についての2,3の問題」(Vol.15, No.2, 101-106, 1958)を投稿採用された。

   

「高令医学(Geriatric Medicine)」が発刊されることになったとき、原島進先生が監修委員の中におられた関係か「脳卒中乃至高血圧症の疫学的研究」(高令医学、1(4), 160-168, 昭32)を書いている。このとき私として初めて「疫学的研究」という表現を使った。脳卒中研究懇話会(代表梅原裕)が発足し、高齢医学(8(2))に第1回の懇話会の特集(その1)と「「脳卒中発作の疫学」(佐々木直亮・山田信男・蓮沼正男)(pp110-115)が掲載された。(その2)は8(4)に文献抄録として「秋田県一農村における死因別にみた生前の血圧」(佐々木直亮・蓮沼正男)(p20)が掲載された。

弘前大学医学部衛生学教室に昭和29年助教授として赴任以来、研究の目標は「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防に関する研究」に移ったが、その成果がすこしまとまってきた昭和33年熊本で開催された第28回日本衛生学会総会で初めて行われたシンポジアム「高血圧の疫学」(司会吉岡博人)に発言に機会があった。いろいろな意味で記憶に残る学会発表であったが、その「高血圧の疫学的研究」の要旨が記録(日衛誌, 13(1), 11-13, 昭33)されている。

「公衆衛生」という雑誌には多くの論文を投稿し、また依頼執筆を受けたが、「脳卒中についての公衆衛生学的問題点」(佐々木直亮、武田壌寿:公衆衛生, 22(10), 556-561, 昭33)が初めてである。

法医学教室の赤石英教授らがやっていた法医学談話会が南江堂から刊行していた「法醫学の実際と研究」にCO中毒の共同研究を法医学教室とやっていた関係で「B14 COHbをめぐる諸問題」(法医学の実際と研究V, 121-137, 昭33)を書いた。

青森県農業改良普及会から依頼があって「田植どきの保健」(青森農業, 10(5)(第107号), 12-13, 昭34)を書いた。

保健科学研究会編集の杏林書院から刊行されていた「保健の科学」に「コホ−ト分析とその実例」(保健の科学, 2(5), 146-149, 1960)を書いた。「cohort」を日本語としての「コホ−ト」として初めて紹介したと記憶している。後日「食塩と脳卒中」(20(1),30-34,1978)、「成人保健と疫学」(20(10),372-677,1978)「農家と食生活を巡って」(27(3),156-160,1985)を書いた。

医歯薬出版から発刊されていた週刊「医学のあゆみ」に「わが国の脳卒中死亡率と血圧水準との地域差の相関関係について」(佐々木直亮、武田壌寿、福士襄、山口俊夫:1960,9,12受付)を投稿したら、「短報」(医学のあゆみ, 35(4), 178-179, 昭35)として受理された。「弘前大学医学部衛生学教室」が「わが教室史」(51(6),380,昭39.11.7)に、「第35回日本衛生学会−賢い生活の知恵を」(52(1),37,昭40.1.2)、「学会記録」が(54(7),460,昭40.8.14)に掲載された。

日本学校保健学会編集の家政教育社発刊の「学校保健研究」からの依頼だったとの記憶であるが「リンゴと健康」(学校保健研究, 3(2), 18-19, 昭35)を書いた。

厚生統計協会から刊行されていた「厚生の指標」に「脳卒中死亡の地域差」(8(11), 10-15, 昭36)を書いた。その後「死亡統計の作り方考え方についての一つの試み」(佐々木直亮・武田壌寿)(9(2), 5-7, 昭37)の論文が掲載された。

国民栄養協会発刊の「食生活」へ「高血圧予防とりんご摂取」(55(12), 128-134, 昭36)を書いた。「食塩過剰摂取についての反省」(77(5), 82-83, 昭58)も。これを読んで長田正松氏は「酢で疲れが消える」(健康食調理普及協会発行)の昭和37年第3版に引用した。

渡辺定先生らがやっておられた寿命学会主催の「脳卒中の予防,治療及びリハビリテ−ション」のシンポジウムが日本医師会館で行われたとき、「予防」の部を喋った。「脳卒中の予防について」(日本医師会雑誌, 48(2), 75-79, 昭37)に記録されている。

保健文化社発行の「健康管理」に第2回健康管理研究協議会で行われた「循環器健康管理の問題点とその克服の方途」の特集号が掲載された。発言が記録(健康管理, 6(96号), 36, 1962)されている。「循環器管理からみた加齢の意義」(11(281号), 13-24, 1977)。

日本での循環器疾患に関する英文雑誌としての「Japanese Heart Journal」が発刊されることになって、編集委員長の上田英雄先生から、投稿を依頼され、「High Blood Pressure and the Salt Intake of the Japanese」を書いた。「Naosuke Sasaki:Jap. Heart J.: Vol3, No.4, July, 1962」に掲載された。略字の「Jap.」は後日「Jpn.」になった。別刷の要求が世界中からきた。

医学書院発刊の「神経研究の進歩」の神経疫学の特集号に「Apoplexy(脳卒中)の疫学」(7(2), 297-312, 昭38)を書いた。

武田薬品から刊行されていた「保健」に「効果的な業務の進め方(4)」の討論記事(佐々木直亮、高松功ら)が記録(保健, 4, No.116, 2-6, 1963)された。

第一生命から刊行されていた「医務通信」の高血圧特集に「高血圧とその対策」(No.21, 1-5, Jyl. 1963)を書いた。

青森県教育委員会発行の「教育広報」の「本県の学力向上対策に望む」の特集号に「疫学的なみ方」(13(6)、28-29, 1963.9)を書いた。

青森県広報室から出されていた「県政のあゆみ」が「健康水準向上への道しるべ--夏季保健福祉活動」の編集を行った中で「夏季保健福祉活動の教育的意義」(13(9), 3-4, 1964)を書いた。座談会「県民の健康水準」(13(5),2-9,1964)が記録されている。

「Geiatrics」から執筆依頼があった。「The relationship of salt intake to hypertension in the Japanese」を書いた。論文は「Naosuke Sasaki:Geriatrics, vol.19, No.10, 735-744, 1964)に掲載された。

昭和40年5月に弘前において第35回日本衛生学会総会(佐々木直亮会長)が行われたが、その総会号(日本衛生学雑誌, 20(3), 昭40)をまとめた。前年の京都での次期会長特別講演「生活と高血圧」の内容を掲載(pp237-253)して戴いた。

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