弘前だより(SPUR37)

                

 今年平成十年の春ははやくやってきました。 

 昨年の雪の調子だと大鰐そして鰺か沢とかなりおそくまで滑れるかと思ったのに、春は早くきて、あっとゆうまに雪は消えてしまいました。桜は一月もはやく咲き始め、弘前公園でのさくら祭りの会期はじめの日には桜は満開をすぎていました。

 弘前へきて四十数年めずらしいことでした。何かがかわりつつある気がします。弘前の風景も人も。

 早いもので昨年の弘前だよりで「新歓コンパ」の様子を書きましたが、今年は都合で欠席しました。元気でいるのですが。

 昨年の末お元気だった大池弥三郎先生が亡くなられました。城西大橋のふもとに(といいても古い方には分からないでしょが)新しく出来た「公益セレモニ―ホ―ル」での黎明郷リハビリテ―ション病院葬は「にぎやかなことのすきだった」先生にはご満足のことだったでしょう。せっかくやりたいことが沢山おありだったと思いますが。

「理事長」は誰に、と思っておりましたが、新聞誌上の伝えるところによれば、就任の話が持ち上がった時は「涙ながらに断っていた」奧様の豊子さんが夫の遺影に語り掛けてお引き受けになったようです。「岩木の山と川に四十五年」を出版された大池先生がわざわざ小生の自宅まで本をおとどけくださった日を思い出します。

 スキ―部部長の松山秀一教授が定年になり、眼科には東北大学から中沢満教授が着任されたのですが、その初仕事が「故弘前大学名誉教授松山秀一殿」の葬儀委員長であったとは。

 五月二日松山教授が亡くなられたニュ―スが飛び込んできました。

 「ああ がんばったのに 残念なことだな」と思いました。

 あれはもう五年も前のことでしたでしようか。三上コ―チの歓迎会をかねた会の時だったと思います。松山部長が首にシ―ネをあてて現れた時です。「交通事故ですか」との私の質問に、彼は「***、スキ―部の部長は誰かに変わっていただけなければ・・・」と。 その答えの臨床診断名はちょっとよく聞き取れなかったのですが、彼の深刻な顔に「予後」の重大さを感じとったのですが。それがもう五年も前のことでした。

 そのあとは皆さんもご存じのように「自分は癌である」と研究会や公の席でも話し、入退院を繰り返し、それでいて眼科医会はもちろんのこと、スキ―部の会にはいつも、医学部医師会のことも、アイバンクの事も、弘前交響楽団、メンネルコ―ル、そして弘高二六会、日独・日仏協会のことも。今医学部で一番忙しい教授ではないかと写真と一緒に鵬桜会報(三十九号)に書いたことがありました。新聞での死亡広告には「前立腺癌」とありました。

 西茂森海蔵寺でのお通夜の席での追悼の言葉また合唱に心をうたれました。(公益セレモニ―ホ―ルでの告別式もありましたが)

 今から四十数年前私が助教授で弘前へきたとき、音楽の好きな学生がいて、一緒に合唱をやったことがありました。そのなかの一人が松山君であったとは。

 「おめでたいことは人が順に死ぬことである」という話を聞いたことがあります。

 ここ数年照井・佐藤・高橋・松永・大池と明治生まれの初代教授の先生方がお亡くなりになり、これはおめでたいうちにはいることなのでしょうけれど、どうも最近順がくるうことがありすぎる気がします。身近の人たちのなかに。

 「成人病から生活習慣病へ」を弘前市医師会報(二五八号)に書きました。歴史的な考察をも含めて。

 「私の散歩道」(二五六号)で冬のスキ―、夏のゴルフを楽しむために毎日城南の自宅から大学図書館までウオ―キングしていますが。いつまでこの弘前だよりが書けるものかと思うことがあります。

 この「SPUR」のバックナンバ―はそのうち図書館なり鵬桜会かに寄贈したいと思っておりますが。

 前号と「コンピ―ユタ―に捕まった」(二五四号)に書いたように自宅で仕事(目下色々のデタ―ベ―スを作成中)することが多いのですが、先日私の書いた「弘前だより」を全部フロピ―にいれました。テキスト文書でいれれば「107KB」ですから、これからの「ペ―パ―レス」の時代の記録としては役にたつことだと思います。いずれは鵬桜会のホ―ムペ―ジ(ここ一年以上工事中がつづいていますが)にでも入れる機会があればと思います。ご希望の方があれば「Eメ―ル」でも送ります。

 この原稿の締め切り近く五月二十四日、久しぶりに津軽CCでのHMGコンペでは五四・四八でした。

 近くにみた岩木山は例年ならば沢山雪が残っているのに、もう頂上までほとんど雪はありませんでした。(十・五・三一)

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