県褒賞を受けて

 

 昭和29年に弘前大学医学部に着任したとき、全学をあげて取り組んでいたテ−マは「シビ・ガッチャキ症」であった。

 その時読んだ論文、御所河原町の増田桓一先生がビタミン誌に書かれていた論文の、はじめの文句は忘れられない。

 「ある地方に一つの固有の病名が生まれることは、この地方にその病気が長い間、如何に深刻に蔓延して来たかを物語るものと考える。その病気の本態が闡明(せんめい)されずに残されている主要な理由としてはその地方の医学的後進性の如何、また日本医学の重点の置き方が従来余りのも都市中心的であったことなどが挙げられるであろう。いわゆるシビ・ガッチャキ症も亦この部類に属する病気と解せられる」と。

 次におぼえた言葉は「あたった」ということであった。そして30年近く、この問題にとりくむことになってしまった。

 この「あたり」が、高血圧と結びついて、今や国際的な話題になり、医療における極めて大きな問題であることが認識されるようになった。

 わが国で「脳溢血」の研究をはじめてまとめられたのは西野忠次郎先生であったが、先生の講義の中で東北地方のことにふれられた記憶はない。しかし脳溢血の成因について「衛生学的研究」をされた近藤正二先生は、青森医専に講義に来られて、その弟子の高橋英次先生が、衛生学教室の初代の教授であった。

 高橋先生、そして助教授の私、武田壌寿(教育学部教授)、伊藤弘(南黒医師会長)の4名で、死亡統計を検討し、青森県・秋田県内を血圧計をさげて、あるきはじめたのが、今日いうところの「疫学的研究」のはじまりであった。

 去る56年11月19日、思いかけず、青森県褒賞を戴くことになった。

 「早くから衛生学を専攻し、特に疫学的研究によって、青森県民の脳卒中・高血圧の実態を明らかにするとともに、その成因に接近する等優れた成果を挙げまた日本衛生学会長等の要職にあって斯学の向上発展に貢献した実績まことに著明であった。よって青森県褒賞規則により銀杯一個を贈って褒賞する」と褒状にあった。北村正哉知事よりの手渡しであった。

 推薦があり、審査があってのことであるが、50年60年とその道一筋の方々にまじって、四捨五入してようやく30年の者として、他に賞に値する方々がおられるのではないかと思いつつ、賞を受けた。

 今まで研究を続けてこられたのは、地域の方々は勿論のこと、多くの方々のご協力があってのことであり、感謝しなければならない。

 弘前大学、そして医師会員の一人として、又疫学を専攻する者として、青森県という地域に認められたことは有り難いことであった。

青森県医師会報,249,142,昭57.3.)

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