一冊の本「実験医学序説」

 

 学生時代は、比較的乱読であった、と思う。夏目漱石、寺田寅彦、西田幾太郎、ロシア文学、そしてキュ−リ−夫人伝などの伝記物、福沢諭吉の新女大学等々。

 岩波文庫など自分で買い求めたものもあるが、多くは三田・日吉の図書館をよく利用して読んだことが思い出される。

 日中戦争から太平洋戦争へ突入するという時であり、食糧もそろそろ窮屈になってくるという非常時ではあったが、スポ−ツに、読書に、けっこう楽しい大学生活を送れたと思う。

 こんな時読んだ本の中で、一冊の本をあげるとすれば、クロ−ド・ベルナ−ル著「実験医学序説」をあげたい。解題は加藤元一先生であった。

 慶應義塾大学医学部の生理学教室は、加藤先生にひきいられ、多くの俊英がひしめいていた。業績は国際的であり、高く評価され、未知の世界は若い心をとらえる。

 岩波文庫の中におさめられていたこの本の訳者が三浦岱栄という先輩であったことも親しみをおぼえたのかもしれない。

 学生時代に満州に行き、海軍軍医として出征した時も、この本は行李の中にあり、繰り返し繰り返し読んだものだ。

 この文を書くにあたって、久し振りに本棚からとり出した小冊子の表紙はすでにほぐれ、手製の白い厚手に表紙に、”Claude Bernard 1813-1878”と書いてあった。内表紙の題字は、右から左へと印刷されていた。

 この本の真髄は、解題された加藤先生の次ぎの言葉にいいつくされていると思う。

 「然らば彼の科学的生涯に於て最も特徴づけて居るものは何であろうか。それは真理に対する愛である。」

 「彼は真理を愛し確実を慾した。そして生理学に於ても亦それが可能なることを確信して居った。 彼が好んでデテルミニスムという言葉を用いたのは、実にこの間の関係を明らかにする為であった。デテルミニスムとは現象の決定因子、近接因子、物質的存在条件であって、第一原因即ち目的原因と相対立する言葉である。科学の目的は実にこのデテルミニスムの追究を措いて他にない」と。

 

 そして今私は衛生学にいる。人間と環境との接点に身をおき、多くの人々の生活を見、知ることによって、広く人間の健康の問題をとらえ、疫学的に接近してゆく学問の展開を必要とすると思うようになった。

 しかしその基礎に、クロ−ド・ベルナ−ルの一冊の本があることはたしかであると思う。

Medical Companion, 2 ,1158, 1982)

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