北海道で運河を掘る

 

 昭和16年頃、北海道の太平洋側の苫小牧と日本海側の石狩とを結ぶ運河の計画があった。戦時色豊かな時である。札幌から一寸南へ下がった島松の近くの小屋に寝泊まりして、将来は大運河の一部になると聞いていた排水溝の土掘りをしたのである。

 石黒忠篤氏を会長に、「我国ノ将来ヲ負担スル青年学徒ニ時代ノ認識ヲ与ヘ新東亜建設運動ニ向ハシムル指導連絡ノ機関タルコト」を目的とした「学生義勇軍」というのがあって、全国から多くの学生が参加していた。 15年の満州開拓訓練にひきつづき、16年夏は北海道行となったのである。

 「大運河と空港」の構想をもっていたといわれる渡辺栄蔵氏に縁のある方が、人づてに私のことを聞き、一夜電話がかかってきた。幸いなことといおうか、今はどこをさがしてもないと思われる資料が私の手元にあったのである。

 今その場所は千歳市と長沼町との境にあたるところにある。

 丸秘の計画書、全国から参加した学生の名簿、当時の新聞のきりぬき、そして私がとった写真が出てきた。

第8小隊        炊事班            衛生隊

 その写真をみると、40年も前の出来事が正に昨日のように思い出される。朝四時起床、原野にイヤサカを称え手を上げている姿、土を堀りトロッコを押す学生達、第二中隊第八小隊とアルバムに書いてある集合写真、同級の福原晋君の顔もある。丁度お腹をこわしてお世話になった衛生隊の東大、慈恵医大、日本医大の学部三、四年生、中に今もお世話になっている第一生命の平尾正治先生のかわいい顔もある。食事の世話をしてくれた女子学生、そしてここに写っている顔どれもが、実に明るく楽しい顔をしているのである。

 千歳開基百年の記念に、史実を追っている方々の努力に、私もはからずも昔を思い出すことになったのだが、海軍に入る前に整理しておいた資料が役に立って幸いであった。

 何にもまして私にとって感激であったことは、そこの土地の人達が誰いうとなく、その運河を「大学排水」とよび、そこに橋がかかったときには「大学橋」と名付け、今は「大学川」という流れになって、運河こそできなかったが広々とした水田の灌漑に役に立っていたことであった。

大学橋にて

 取材についてきた若い新聞記者が「これも青春の一頁だったのでしょうか」と問いかけてくれた声が、広い空にかけぬけていった。

(日本医事新報,2936,68,昭55.8.2.)

「関係資料は北海道大学図書館北方資料室へ寄贈した」

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