HMGゴルフコンペの記録

 

 HMGゴルフコンペの5月例会で津軽CCのコ−スを回っていた時佐藤雄治先生から話かけられた。

 「HMGゴルフコンペはいつごろから始めましたかね? 記録のノ−トがみあたらなくて、先生のメモにありませんかね」と宿題ができてしまった。

 

 昭39.6.8.に十和田国際CCが、昭39.7.10. に青森CCがオ−プンしたので好きな連中は通い始めた。それも主としてスキ−をやっている人達であった。

 当時私は昭36.5.21に発足した青森ヨット協会なるものの会長にかつがれていたので、37年に乗り出し車で通う先は主に青森のヨットであった。

 弘前の岩木川の河川敷に作られたゴルフ練習場に通った記憶があるのだが、40年9月からアメリカへ在外研究にいってしまったので1年間ブランクになった。

 

 医学部新校舎ができて衛生学教室が6階に移った機会に発行し始めた教室NewsのNo.5の昭43.5.19.に弘前メデイカル・ゴルフコンペへ出場したとタイプされていた。伊藤入賞・佐々木大波賞とあった。黒石の伊藤弘先生につれて行かれたのであろう。青森CCの八甲田コ−スであった。

 6月30日には弘大医同窓会ゴルフコンペが十和田国際CCで開かれBB賞とあった。砂ほこりのひどい道を運転していったことが思い出される。

 9月15日弘前メデイカルゴルフ秋季コンペが青森CCで開かれ伊藤弘先生優勝(47.42.Hdcp23.Net66.)、佐々木ノ−ズロ賞とあった。

 弘前市医師会報No.50(昭45.V)に「レジャ−・アンド・レジャ−」のゴルフの友に

 「会員の中で、ゴルフ愛好家が年々増えてきた。昨年板垣正太郎先生、佐藤雄治先生らのお骨折りで、津軽西部地区の医師会、歯科医師会の同志達による”弘前ドクタ−ズ(野球と同名だが)なる愉快なグル−プが誕生した。佐藤熈先生を会長にいただいて、毎月(5月ー11月)1回サンデ−ゴルフが行われる。」(鳴海康安記)ということで初めて紹介されていた。

 板垣先生の話によると青森でやっていたのだが段々人も増え、青森地区と弘前地区と分けることになり、ここにHMG(ヒロサキ・メデイカル)になったことのようである。

 佐藤熈先生のことというと八戸の佐藤邦夫先生がまとめた追悼録「雲想海」に

 「昭和42年、十和田国際カントリ−クラブの芝生は、オ−プンして3年以上となり、緑々と生えそろっていた。八戸に来た父母を送って弘前へ行く途中、六戸の十和田国際CCに立ち寄った。(お父さん、ボ−ル打ってみたら)(よし)打ち放し練習場で、5番アイアンを持たせた。(ナイスショット)(もう一発)(もう一発)(もう一発)初めの野球グリップもゴルフグリップに慣れてきて、150メ−トルの標示も軽々と超えて飛んで行った」とあった。これが佐藤熈先生のゴルフ事始であるが、44年に東北女子大学長になられたあとグランドでアプロ−チの練習をされていたこととか、津軽CCを設立されたことなどが思い出される。

 私のゴルフ事始はアメリカミネソタ大学で「golf clinic」の広告を見たことに始まる。「クリニク」とは臨床講義で室内でのゴルフ指導であった。50セントで「How to improve your GOLF」を求め、またクリスマスの過ぎるのを待って翌日安くなったセット(Wilson Sam Snead)を買い、学生1日25セントのチケットで大学構内のコ−スをセルフで回った。ヨ−ロッパへ回る都合があったのでゴルフセットを日本へ帰国する友人の荷物に入れてもらって弘前までとどけてもらった。おかげで免税になった。

 初め野球打ちでなやみ、それで野球をやめたが、それでもHMGのゴルフコンペでは昭49.7.28.青森CCで50.52.Hdcp32.Net70.、昭53.7.30.大鰐CCで51.47.Hdcp29.Net69.と2回優勝している。ハンデイが上がる前のことで、最近ではとんとキャリ−が落ち、津軽CCのHdcp.は29どまりだが、もっぱら参加賞である。

 でも先日(平成4.6.3.)津軽CCで開催された第17回青森県親善競技大会(ゴルフ場役員の)で久しぶりにパ−プレイ(49.52.Hdcp29.Net72)であがってきたら、グランドシニヤ(70歳以上)の部で優勝ということであった。 

  (弘前市医師会報,224, 44-45, 平成4.8.15.)

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