柴田学園とのこと

 

 随分長い間柴田学園にはお世話になってきたものだと思う。

 弘前大学に赴任してきた昭和二十九年は丁度東北女子短期大学に生活科が増設された年で、「公衆衛生」の講義の話が衛生学の助教授であった私にあった。まだ医学部に公衆衛生学講座のない頃で教授は忙しく私にということであったのであろう。またそれが理事長をしておられた今村敏先生との出会いでもあった。東北栄養専門学校も兼務で講義にいったとき休む学務の部屋の一角に松野伝学長の椅子と机があったことが思い出される。

 今村敏先生を初めてスナップした写真はたしか高等学校に新しい調理の実習室ができてご案内戴いたときのもので、実習室に炭の七輪がならび換気が考えられていなかったので、これでは一酸化炭素中毒が心配ですねと申しあげた記憶がある。でもこの写真をみていると私の撮った人物写真の中で秀逸なものの一つだと思う。

昭和31年4月

 昭和三十五年五月十三日午前九時十分頃であったか。在府町にあった医学部から眺めて柴田学園の方に煙が上がった。短大創立十周年記念式典の前日の火事であった。駆けつけてみたあとの焼け跡。その中に同窓会の人達が贈ったとかいわれていた自動車やミシンの焼けた姿は痛ましかった。だが三十六年の秋には新校舎ができて立派に立ち直った。この間高等学校の校舎で授業をした。

 昭和三十九年十月二日日本家政学会東北北海道支部第九回総会が短大を会場に開かれたとき葛西文造先生からのお話で私は特別講演の機会を与えられ「塩少々」という題で話をした。

 昭和四十年九月アメリカでの在外研究に出発し一年後帰国したあとはいろいろと忙しくなって短大へは行けなくなった。

 昭和四十四年を目標に「東北女子大学」設置の話が持ち上がった。そして学長予定者として医学部の生理学の教授・医学部長そして学長をされた佐藤熈先生の名前が上がった。また「衛生学」のお手伝いをしないわけにいかなくなった。

 大学設置の申請に対する視察があるという。大学設置審議会から谷川久治先生がこられるという。先生は千葉大学医学部の衛生学の教授で学長をされた方でよく存じあげていた。またお茶の水女子大の稲垣正典先生も研究を通じて存じあげている先生であった。葛西文造先生と私が弘前大学からの協力者として呼ばれたことはそれなりの意味があったのであろう。学園側の当事者の苦労は分からないままに当然女子大学は認可されるものだと思っていた。

 女子大学で始まった講義は学生も少なく、大学経営も楽ではないと想像されたが、また一面学生にとっては随分贅沢な授業ではなかったかと思ったりした。

 弘前大学での私の停年が近づいたある日、講義はどうしましょうか弘前におりますがと学長であり理事長である今村城太郎先生にうかがったら「昔のことを知っている方は有難い。今度はスタッフでやっていただけないでしょうか」と手を差し伸べられた。「一本半で如何でしょう」と面白い表現であった。

 年金生活で積み残した仕事をしたいと考えていたところであったが、「衛生学」は勿論やりますが、これからは「健康科学」の時代ですと自ら売り込んでみた。 

   (柴田学園創立七十年記念誌, 167-168, 平成5.4.30.)

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