昭和18年9月の早慶卒業式

             

 平成7年のキ−ワ−ドは多分「戦後50年」になるのではないかとの思いがあって、日本医事新報の「炉辺閑話」の随筆に「戦後五十年」という題で原稿を送ったのだが、年が明けてテレビ・新聞は特集番組・記事を放映・連載している。

 昔の資料を整理していたら、51年前私が大学を卒業した時の新聞記事が出てきた。

 時局切迫の折から卒業が6カ月早くなって、卒業式が行われたのは昭和18年9月26日であった。

 翌朝の朝日新聞の記事は大きく三色旗に送られて校門を出る我々を写していた。

 

「盡忠・校旗に誓ひ征く」「早慶卒業式」

 

「慶大」

「この日のために 兵営に駈つく軍醫候補」

 

 午前十時から一千四百の新卒業生を送る卒業式は父兄、卒業生だけを講堂に集めて厳粛に開式、特に卒業生のために教育勅語をこの式場に奉讀した小泉塾長は

 「吾々は諸君とともに遠く上海、南京、徐州、漢口の捷報を聞き共に宣戦の大詔を拝し、共に陸海将兵の壮烈なる功業に泣き、いまは国家存亡の機の正に目前に在るを見る、諸君は父兄よりも更にこの機を知っている、すでに幾多の諸君の学友は軍務に服し、けふ三田の丘で卒業式行はるゝを想いつゝ猛烈なる訓練をやってゐるのである」

 と今日の卒業生が陸海鷲志願に示した無言の決意を讃えたのち

 「今後ももっとも激烈、困難、危険にしてもっとも信頼すべき人物を必要とする場合にはそこに慶応義塾の者が在らねばならぬ、慶応の数箇年の教育は諸君をかかる人物に育成した筈である、国家百年の士を養ふはたゞこの一日のみ、今日の一日の用をなさしめんがためであった」

 と強く、強く君国に報いるべきを説いた。この時すでに在校生三千余は講堂前に列をつくって卒業生を送る姿勢、その列の間を卒業証書を右手にした一團がさッさッの靴音高く校門へ向ふ、〇〇駅にかけつけて即日入隊する軍医志願の学徒である、つゞいて〇〇名の陸、海鷲入隊者を先登に出て往く卒業生「敬禮−ツ」送る者送られる者の間に交わされる挙手注目の敬禮の交換、三田の丘はじまって以来のすざましい風景、つゞいて大三色旗の下に壮行會が送る学生から開かれた。

 「徴兵猶豫の制度廃止せられ、今や我々も兄らに続いて戦場に向ひます」

 との壮行の言葉が在校生から餞けされ、あとは校歌、拍手、塾歌、懐かしと感激の思ひ出がしっかと胸にたゝみこまれ、母校と祖国の興亡をかけて卒業生は戦場へ、戦ふ銃後へ進発した

 

「早大」

「作れ偉大なる歴史」「田中総長、烈々の挨拶」

 

 逞しき学徒出撃の感激を包んで早大ではこの日午前九時専門部、高等師範部、専門学校の卒業式を挙行、学部卒業式は午後二時から同校大隈講堂で行はれた、錬成部音楽隊の奏する校歌の音律が講堂一杯に漲るや粛々として校旗は入場、式は先ず国民儀禮に始まり、続いて卒業証書授與、優等賞授與、教職員賞授與がありつゞいて田中総長は八月以来の病体を押切って登壇今日の晴れの学徒出陣に餞けて烈々しかも懇々と、大要次の如く諭した

 「戦争は決して物によって決するものではなく実に国民の精神力によって決するのである、遠くはかの元寇の役に於て、近くは日清日露の役に於て、物質的に優勢を誇った敵をやつつけたものは何であろう、実に我国民打って一丸となって精神力において敵を圧倒したからに外ならない、戦ひを戦ひ抜き光栄ある大東亜をうちたてる任務は諸君の双肩にある、教育勅語の畏き教訓は今こそ発揮すべき時であるかどうか諸君は第一線と銃後との區別なく最高學府を出たことに誇りを持つて日本国民の模範となつて活躍していたゞきたい、戦争はあくまで長期にわたることを覚悟して戦局の進展に一喜一憂することなくあくまで最後の勝利を得るまで敢闘され、人類の歴史にかつてなき大建設戦の有終の美を達成されて皇恩の万分の一に報い奉り且又母校の名誉をかゞやかされんことを祈る」

 次いで校友代表の祝辞あってのち卒業生代表磯部忠勇君は起って「師恩に応え米英撃滅にまい進せん」と答えた、湧き上がる校歌「都の西北、早稲田の杜に・・」退場する配属将校團の先登北村大佐が感激して帽をふる、あの泥濘の査閲に示した意義だぞと眼で訓す北村大佐、堂に流れる楽の音は「我が大君に召されたる、生命栄光ある朝ぼらけ」と卒業生出陣を祝していつまでも鳴り響いてゐた、荘厳な卒業式であった

 

 旧かなずかい、第二水準の漢字、ルビ付き、そして記事の中に「〇〇駅」「〇〇名」とある。何といさましい言葉で送られたものと今思う。

 慶応義塾の塾長・早稲田大学の総長の言われた話はそれぞれ特徴があるものの、正に時代を反映している。

 小泉新三塾長はすでに「海軍主計大尉小泉信吉」戦死の報を受け取った(昭和17年12月4日夕)後であり、山本五十六元帥の国葬(昭和18年6月5日)の後という時代であった。

 

 そしてこの日慶応義塾卒業の前に古谷君は次のような遺書をのこしている。

 「御両親はもとより小生が大なる武勇をなすより、身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんことを、朝な夕なに神仏に懇願すべきは之親子の情にして当然なり。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。

 大君に対し奉り忠義の誠を致さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干伐を執るらんの覚悟なり。」

(昭和20年5月11日「第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊」隊員として、一式陸上攻撃隊に搭乗、鹿屋基地を出撃、南西諸島で戦死した海軍少佐古谷真二君の遺書で、現在広島県江田島町にある海上自衛隊教育参考館に在り、決起を呼びかけて割腹自殺した三島由紀夫がその一カ月前これを読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と、声を出して泣いたという:三田評論10/94丸博君の記事による)

 

 私は遺書は書かなかったが、大学4年間に書いた日記は卒業式で聞いた小泉塾長の言葉「今日の一日の用をなさしめんがためであった」を記して終わっていた。

 「愈々明日より築地(海軍軍医学校)に通ふことになった。長い学生生活に別れをつげ海軍軍人生活に入るのである。今ふりかえって見ると何の為にといふか何の目的あって慶応に入り医学部に入ったのか、それは依然として不明の事である。すきなままにといふ、なるがままに、思うがままに現在に到ったというのが適当であろう。

 現在の若者達をみよ、それは実に純粋にあこがれをもっている。

 ・・・少年兵へ・・兵学校へ・・・

 所謂技術者には徴兵延期がなされている。それは国家の要請である。技術者の養成の現れである。その人達にとっても今や目的は判然とするべきである。技術報国である。ここにも徹底的な頭の切り替えが要求されなければならぬ。軍医長は艦長の医事について艦長の補佐をする。軍医長は艦長になれぬものか。僕の今までの生活をかえりみて人にまけるというか人のやる事は何でもやりたい、やるの心が絶えずはたらいている。現に軍医の職が与えられていれば何故兵学校へ入らなかったと思うこと切である。

 今後如何なる気持ちで物事に処すべきか。

「死ぬ迄 頑張る」「精一杯やろう」と書いていた。

 そして「教育勅語」から「軍人勅諭」の生活に入った。

 戦後何回も繰り返され上映されるあの「明治神宮外苑のトラックを水しぶきの中、出征学徒が行進するシ−ン」は、海軍軍医の訓練場所であった「青島(チンタオ)」で見た。 (7-7-15)

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