三毛蘭寿郎のこと

 

 前に久米の清ちゃんからの手紙に突如ミケランジェロのことがでてきたことについて、あとで説明しなければならないと書いたことがあったが、今日はそのことについて書き留めておきたい。

 話は父の従兄弟の渋沢秀雄さんの書いた随筆をみせられたことから始まる。秀雄さんは随筆家と世にいわれていたが、

 「空想御先祖さま 鬼の顔」という題であった。

 「ミケランジェロがバチカン宮殿に(最後の審判)の大壁画を描いたのは、1541年、彼が地獄の鬼の顔を大嫌いな大官に似せたというのはそのときである。

 ところでその年彼はさる美しい女性に男の子をうませた。しかしある事情で正式な結婚をしなかったため、女性の名はつまびらかでないし、子供の名も同様である。そして彫刻家、建築家、画家兼詩人のミケランジェロは1564年に、精力的で偉大な八十九年の生涯を閉じた。

 それに先立つ三年、宣教師ビレラは日本の京都にきてキリスト教をひろめた。日本流にいえば永禄四年だ。例の川中島で上杉謙信が単騎武田信玄に迫り、流星光底長蛇を逸した年である。そしてビレラは、一人の若い弟子を伴ってきた。それがミケランジェロの子だったのである。その青年は後年ある日本娘と恋愛結婚をして日本へ帰化したとき、三毛蘭寿郎と名のった。けだし祖国の偉大な父を記念したのだろう。

 その蘭寿郎は、三毛という名にあやかってネコを熱愛したことと、日本式スパゲッテイとのいうべきウドンを好んだことしか伝わっていない。そしてどんな事情か判然しないが、三毛家は寛政時代に武蔵国川越へ移住して、半農半商の生活をはじめた。しかし文化のころの流行病のため当時伊藤家の養子だった蘭岳以外はみな死に絶えた。だから三毛の血すなわちミケランジェロの血は、かろうじて伊藤家に残ったのである。

 絵の上手な蘭岳は菩提寺に地獄極楽図を頼まれたとき、赤鬼の顔を村人の憎む代官ソックリに描いたというから血は争われない。ただしそれ以外の点は、さしも歴史的天才の血も薄れ細ったのは致し方ない仕儀だった。

 蘭岳の孫に伊藤八兵衛と淡島椿岳の兄弟がうまれた。そして私の母渋沢兼子は八兵衛の娘、椿岳の姪(めい)である。」と。

 渋沢栄一が夫人をなくしたあと、後妻に昔丁稚奉公したといわれる芝浜松町で幕府の金かしをやっていた伊藤八兵衛(九代目)の美人といわれていた娘の兼子さんをもらったのは、その気持ちがわかる気がする。 その妹の清子が私の父の母であるという関係である。

 空想なのであろうか、本当のことなのであろうか。二人ともなくなってしまったので聞くわけにはいかない。

 こんな話があったので、身内である久米の清ちゃんの手紙に突如ミケランジェロが登場したのである。

 

 数年前アメリカ200年の歴史のなかで、クンテ・キンタの Rootsをさぐるテレビがあった。

 それに刺激されたのか、父が佐々木家のル−ツをしらべていたこともあったが、私は伊藤家に興味があった。

 そして伊藤家の墓をみつけることができた。ホテル・オ−クラとアメリカ大使館の後ろにある小さい寺「林誓寺」であった。そして寺にある過去帳から1702年五代目の時川越から東京の寺にきていることがわかった。そして幕府にゆるされてたという特別の傘のある墓であった。

 伊藤家は昔川越で、江戸がひらけて寺がうつってきたのであろう。

 川越というとすぐ友人の西川慎八君のことがうかんだ。だから早速こんなことがあるのですよ、と話かけたことがあった。

 「川越地方の探索も手を緩めずやりたいと思います。・・・・菩提寺に地獄極楽図があるかもしれませんね」

 「文化の頃の流行病で三毛家の皆様がなくなったということですから、小生が以前検討した川越市内の流行病で文化年間(1804-1817)では、風邪が文化6年と文化9年にはやっています。これは恐らくインフルエンザであったと推測できます」と。その彼も残念ながら亡くなってしまった。 (1・10・24)

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