人々と生活と

 衛生学教室のアルバムから(抜粋)

 

 今から30年前、弘前に住むようになって、東京生まれの私にとっては何もかもめずらしく、撮り続けた写真集が、衛生学教室のアルバムになった。

 昭和59年7月第49回日本民族衛生学総会が弘前で開催されることになった記念に、その中の何枚かを”人々と生活と”というテ−マで選んでみた。

 ここに写された生活はもうほとんどみられない。青森県の津軽・南部の、また一部秋田県での人々の生活の記録は、それなりに意味があるものだと思う。人々はそれぞれの土地に生活し、その様子は無限にあり、そのほんの一部をのぞきみたにすぎないと思う。

 しかし衛生学者としての私は、そのシイ−ンに何かを意識してシャッタ−をおしたので、一枚一枚にそれなりの意味があり、記憶に残るものがある。

 東北地方に”あだる”といわれていた病気があった。その謎ときに30年を過ごしてきたのだが、その研究にとりかかった当時は、その原因として”労働”が考えられていた。

 東北地方の人々の生活、とくに労働については全く知らなかった私は、まず労働を知らなければならないと思った。そのために週に一回、自転車にのって学校の近くの田畑にかよって、一年を通して農家の人々の労働をみにゆき、写真を摂りつづけていった。

リンゴ

リンゴづくりの作業は、雪のまだ消えぬ2月下旬からはじまっていた。天気の良い日には畑に出て、枝きりをし、”粗皮はぎ”といいた作業をしていた。一面の銀世界に、リンゴの枝だけが黒いのが印象的であった。

   

りんご作業におけるパラチオン剤散布の実態と中毒の調査が、弘前での初の仕事となった。

一番さきに目についたのは、農薬散布をする”さおもち”であり、覆面の下は女性であった。こんな仕事を一日10時間もしていた。風上から薬をかけるだけではないので、リンゴの木、一本一本まわるたびに風下になり、薬を全身にあびていた。

5月にリンゴの花が満開になり、一つ一つの花に人工授粉をし、実が小さく実ってくると、”みすぐり”をしていた。また一つ一つ袋をかけるという仕事がつづき、その間に何回も何回も農薬散布が行われていた。

 りんご作業への、労働医学的接近は高橋英次教授らの”袋かけ作業の疲労についての研究”から始まっていた。

  

赤いりんごは美しかったが、ゴ−ルデンの黄色のリンゴもめずらしかった。

りんごの収穫がはじまり、畑で大きさをそろえる選果をして倉庫にいれ、冬になると馬そりで市場へ出荷していた。秋11月に市内のりんご協会の会館で開催される、りんご品評会に立派なリンゴを見に行ったりした。

米:水田作業

教室から自転車で5分、長勝寺のうしろの岩木山を眺められる今は城西団地になっているところは、30年前は一面の水田であった。

弘前公園の観桜会がすむと、農家の人たちはリンゴと水田の作業で急にいそがしくなる。

5月上旬、人力による田起こしがはじまった。これも人の力で、それも女性がやっていた。牛をつかっている人もいたが、正に労働にふさわしい仕事であった。

5月22日岩木川に近い、上の方から順に田んぼに水が入ってきた。5月24日には大部分の田に水が入り、牛や馬をつかった”代掻(しろかき)”がはじまった。

翌5月25日には苗取りがはじまった。苗代にかがみこみ、小指に一番力を入れて苗をぬき、水の中で泥をおとしてたちあがり、腰のわらひもでむすんで苗たばをつくる。

外科の福島高文先生が”そらで”の研究をやっていた。

ビニ−ルが使いはじめた頃でビニ−ル温床もあった。

 

田植定規(タウエカダ)で型をつけたところへ田植えをしてゆく。前へ植えてゆく人、後ろへ植えてゆく人、様々であった。

美しき五月に陽は暖かかったが風は冷たく、毛皮を着ていて丁度よいということであった。

田んぼで昼食をとる人がいた。男達が先にすわり、女はあとからあがってきた。

昼食は昔は5回位、最近は3回位になったといっていた。おにぎりには、もち米入り、あずき入りのもあった。中にはうめぼしが入っていた。なすの漬け物、魚のひものがおかずであった。一人4個から6個食べていた。男たちの前にはもやしの小皿と”どぶろく”があった。

 

ものりの秋近く、農薬をまく人、8月29日穂が出る頃、ひえ抜きをする人が田んぼをみまわっていた。すずめ追いをする人が田んぼのむしろを敷いて座っていた。

9月16日一番早い刈り取りが和徳の田んぼで行われた。

かりとった稲の干し方が、地方によって違うことがわかったのも昭和31年のこの頃であった。

衣食住

昭和29年から弘前近郊の狼森の保健館で、中学生卒業以上の人たちの血圧測定が始まった。

集まってくる人たちの、とくに老人の厚着が目についた。はたして何枚きているか数えたことがあった。

”角巻(かくまき)”はごく普通に着られていた。角巻を着て歩いて行く人をうしろからおいかけて写真を撮っていたとき、中に着ていた毛皮のシッポが、歩く度にひょこひょこ動いていたのが、シャッタ−をおした目に今もやきついている。

秋田県の西目村(現西目町)での調査(昭和32.8)でみかけた「かくまき姿」の色はあざやかであった。

今は”ハイロ−ザ”という、しゃれた名前になっている弘前の”角はデパ−ト”の前には、冬になるといつも毛皮を売る店がでていた。

高血圧と食塩との関係についての研究は”みそ”の研究から始まった。

家ごとにつくられるみその、その製法が違う、豆とこうじと塩の割合が違い、正に”手前みそ”であった。

秋田の西目村の出戸で立派なみその桶をみせてもらった。そのカラ−スライドは、もう15年以上前も世界の学者に”MISO”を印象づけることになった。

狼森の保健館で血圧を測り始めたとき、同じ建物のなかに児童館もあって、子供達が珍しいのか集まってきた。その子供達がよくリンゴを食べるのをみて驚いた。リンゴはいつも丸ごとであった。そのリンゴを沢山食べているという印象が、子供の頃から血圧が、他の地方より低いことと結びついて、高血圧とリンゴとの関連への研究になった。VitCの検討についで、尿のミネラルに目を向け、炎光分析法を野外調査の尿分析に初めて応用した。そしてNa/Kへの問題へと発展することになった。

 

弘前に住むようになって、部屋の中を暖かくすれば、冬は暮らしやすいことがわかったが、調査してまわる家々の暖房の不備はすぐ目についた。外気温を測定し、室内気温を測定すると、冬のまくらの水が凍るのも、もっともなことだと思った。

 

最後の一枚は、人および人々の健康問題へ接近していった”疫学”の原点としての意味をもつ。

昭和30年夏秋田市の田舎の八田部落から下浜村へ入るところである。血圧計をリヤカ−にのせて歩いていった。

そこに住んでいる人々の血圧がどうであろうか、そして生活の様子はどうであろうかと。

それから30年、あっという間に過ぎていった。

昭和59年7月27日発行

(”人々と生活と”の写真集はモノクロで238枚掲載したが、そのうちの数枚をここでは同時に撮影したカラ−をいれてみた)(日本医事新報に書いた随筆はこちらで

「人々と生活と」(写真集)印象記はこちら

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