学生関係もろもろ

写真 進学式 昭和33.4.

昭和37年卒6回生の医学部専門に上がってきたときのもので、場所は旧校舎の第1講義室であった。当時の学生はほとんどがそろいの学生服というものを着ていたものだ。一人宣言をした浅倉礼治君の背広姿が目立っていて、近頃の学生は背広などを着てと言った教授に、これが私のいた学校の制服でしたと答えたことが耳にのこっている。

先生方も沢山でていて、前から中村・入野田・松永・臼淵・そして大池の各先生方がうつっている。(17号その7から

写真 斜陽館前にて記念撮影 昭和32.5.19.

昭和32年5月19日の日曜日、当時の医学部の2年生の遠足に招待されたとき、金木の斜陽館の前で撮った写真である。

この日の日程は、バスで学校を朝7時20分発、金木町、あしの公園、十三湖、下前部落を通って権現崎、そして小泊への往復旅行であったと教室日誌に書いてある。

バスガイドの後ろには当時講師だった武田壌寿先生とその前が北畠顕文君だが、そのほか一人一人顔をみると思い出す人たちである。昭和35年卒第6回生の若き日の思い出の写真である。(19号その9から

写真 自動車部日本一周へ出発 昭和37.7.9.

医学部に自動車部ができて、いよいよ日本一周へ出発することになった日のものである。この際のメンバ−は、浜田、鈴木(公)、橋本、外間、鈴木(重)、佐藤、疋田の七名で、その雄姿は鵬桜会報30号記念号に掲載した。写真は部長の山本教授の音頭でビ−ルで乾杯という時にシャッタ−をおした。但し選手は”のまなかった”とアルバムに書いてある。(21号その11から

写真 医学部基礎玄関前 昭和34.5.28.

旧朝陽小学校、旧医学部基礎玄関前である。

5月29日から6月2日まで開かれた医学祭のかざりつけをしているところで、日野、鈴木・尾形・一柳君らの顔がみえる。

そのほか教室のアルバムには医学祭でのスナップが百枚位あり、佐藤珠子さんの着物姿のお茶の会、解剖の骨の前に外崎、体力測定に神、胃腸には佐藤(巳)・油川、寄生虫に千葉、癌のところには西川、トラコ−マに高橋等の諸兄がうつっているが、現在の活躍ぶりとあわせて考えると面白い。(10号その3から

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