衛生学教室のアルバムから(その28)

 

 また古い写真をおみせしよう。

 弘前へきて初めての印象は、観桜会(かんおうかい)であった。この言葉が懐かしい人は古い人である。今は弘前公園の桜まつりである。

写真1 弘前公園にて 昭和31.4.28.

 写真1は私にとって二回目の観桜会であった昭和31年春の衛生学教室の花見の風景である。前回の抄読会と同じメンバ−が顔をそろえている。

 「オ−イこっちだよ」と奥様とお子さんに手をあげているのは高橋英次教授である。

 順に教養の羽賀与七郎先生、福士襄、能美光房、伊藤弘、奥さん、柴垣和子、佐藤るつ、そして4月13日に結婚式をあげて佐藤姓から成田姓になったばかりの尹(ただし)君と笑子(えみこ)さん。次ぎが私の家内と子供達である。武田壌寿、小野淳信(あつのぶ)そして高松功先生が写っている。学帽をかぶっているのは誰なのか。

 ご馳走もたけのこご飯など手づくりで家族ぐるみの教室の花見であった。今から36年も前のことで子供達は大きくなって結婚し孫の時代である。もうこの世にいない羽賀先生、成田尹君も写っているがあとは皆元気だ。

 

 今年平成4年は多くの人の不幸を迎えた気がするのだが、中でも松谷善吉君(6回生昭和35年卒)の死亡通知を新聞で見たときは残念であった。スキ−部での君を思い、私の三男と同じ方が喪主とは胸が痛んだ。

 お通夜の席で聞いた親友の北畠顕文君のお別れの言葉も涙であった。

 このクラスの人たちが卒業した年の春弘前公園をそろって歩いているときスナップしたことを思いだした。それが写真2である。

写真2 弘前公園にて 安達・北畠・松谷・清水 昭和35.4.24.

 今アメリカにいる安達実君、そして北畠顕文、松谷善吉、鹿児島にいる清水信一郎君が写っていた。

 皆本当によい顔をしている。今年夏のオリンピックでの流行の言葉「生きてきたうちで一番しあわせ」な顔をしている。松谷君の顔を見ていたらこれももう一つ「銀メダル 笑顔は金メダル」の有森祐子さんの顔とだぶってしまった。祭壇に飾られていた松谷君の写真が何かしら愁いを含んだ顔に見えた。卒業して30数年いろいろのことがあったのであろう。

 

 この人たちの一年上の昭和34年卒5回生名づけて「三志会」の人たちの秋田でのクラス会によばれた。

 「県外によばれたのは初めてだ。お金の問題ではなく、その気持ちが有り難いのだ」「60歳になって老いを感ずるとはだらしない。私など80歳をすぎてこの通り」との照井名誉教授と私がご招待であった。

 「先日は函館で同級生と会い、昨日は沖縄で、今日秋田。内科の宿題報告をもらって」と兵庫医大下山孝教授の乾杯の音頭で会は始まった。

 「開業して20年どうにか食べています」「旅行がすきで家内と二人で」「大学教授は地域のことは殆ど考えていない」「娘の相手を心配しています」「この10年医業に遠ざかっています」などなど。

 同級生かと思いましたと云われた私の奥様方への自己紹介は「先日週間朝日(6.26)のりんごの記事の中で(食塩と高血圧・脳卒中の研究で有名な)と書かれた佐々木教授はこの私です。皆さんのことを思いながら鵬桜会報の衛生学教室のアルバムの写真を選び文を書いています」であった。

 このほか年一度のクラス会を羽田から羽田へ往復一緒でフルに活用している方とか、家内がお産が入ったのでこられなくて」という地元の司会者松浦邦夫君の案内を受けて楽しい日であった。

 翌日二組のゴルフの連中とは別に男鹿半島の観光バス旅行が計画されていた。

写真3 男鹿半島八望台にて 平成4.9.13.

 写真3はその時のスナップで、記念撮影ともなると真ん中に座らされる身ではあるが、私のカメラアングルはこの写真のように皆の楽しみを斜めに見させていただいている立場からのものであった。卒業生は浅野有喜、菅原正子、大沼正明、てる(人へんに光)子さん、あと奥さん方が写っている。

その29へ  もとへもどる