衛生学教室のアルバムから (その25)

 

 写真1が何処を撮ったものであるかすぐ分かる方は鵬桜会員の中でもかなり古い卒業生であろう。

写真1 附属病院玄関 昭和46.4.

 青森医専時代のあと弘前医科大学になったときの附属病院の玄関である。

 鵬桜会報の弘前大学医学部30年記念号に「写真でみる30年」を書いたとき、医科大学本部と病院の玄関の写真をのせたが、今度の写真は昭和46年4月写真2のように付属病院構内整備工事が進んで、昔弘前市民病院であったこの病院もそろそろ取り壊される運命にあるな、いまの内に写真にとっておかねばと思ってシャッターを押したものである。

 

      写真2 昭和46.4.       写真3 新病院玄関 昭和46.10.

 そして同じ年の10月には写真3のように面目を一新した。

 すぐ横には医療短期大学部の建物もでき、現在の姿につづいている。

 

 そのころ病棟の整備も進んで、第一世の臨床の教授室とか検査室があった建物は写真4のように新しい建物の中に姿を消した。

  

写真4 昭和46.4.  

 これらの写真のうつり変わりの姿に、それぞれの時代を送った人それぞれに思い出はあるだろう。今回はその流れを写真で紹介するにとどめるが、それから20年以上たち、昭和が終わり平成の時代になったこの2月、今までカバーを被ってその姿をみせていなかった新病棟が顔を見せたところを皆さんに紹介して置きたいと思う(写真5)。

 

写真5 新病棟完成 平成1.2.27.

 

 学生時代に「弘大生のみた津軽」ということで「雪の弘前にて」という本を書いた今泉忠淳君(昭和60年卒)が今度は写真集をだしたのを戴いたが、その中にもう弘前に見られなくなった風景があったのには興味を引かれた。同じようなテーマの写真はないものかとアルバムをみていたら、いくつか写真がみつかった。

 

写真6 昭和56.3.   写真7 昭和56.3.

 写真6・7は下町の弘前公園近くの道を歩いていた時スナップしたものだが、もうそこには医院はなかったが昔の看板だけ残っていた。その診療科名が面白く感じたので撮っておいたのだが、先日久しぶりにこの道にいってみたら、もうこの看板はなくなっていた。

 

 以前編集委員をやっていた鳴海裕行君が衛生学教室のアルバムからの原稿を頼みに来たとき、「先生、夜の鍛冶町の写真はないでしょうか」といっていたことがあった。

写真8 昭和56.9.15.

 写真8は夜の写真ではないが、病院の裏手の辻坂の写真で、南塘グランドから鍛冶町方面へこの坂道を下ってゆき、また人寮へ帰ってきたりした方は多かったのではないか。

 いまこの坂ののぼったところには、写真にみられるように医療短大の校舎や体育館があるところであるが、むかしこの坂の上りつめたところにはメチール入りのかすとりを飲ませた屋台があったことがあった。

 その坂ののぼり口の左側にあった「昼夜四回通し入替えなし年中無休実演ヌード専門劇場」と看板のあった日江劇場に思い出の多い方があるかとは思うが、持ち主が亡くなって、文教地区ということもあって、いまは姿を消してしまった。

 辻坂の工藤のもちはまだ売っているが、このすじ向いのバランタイン(バレンタインではない)もママさんが変ってしまった。

写真9 昭和56.9.15.

 坂をのぼりつめた角のところにあった写真9の(これこれおめだち、あぶねはんで、くるまっこに、きいつけへや)という津軽弁の看板ももう無くなってしまった。

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