石坂洋次郎のこと

   石坂洋次郎の書いた「ストリップ・ショウ」の原文を読むことができた。前号「ストリップ第3話」の続編である。

 産経新聞秋田支社の宇田川尊志氏が手持ちの資料「ふるさと文学館第6巻」からのコピ−を送ってくださった。掲載号の群像(昭和26年1月)ではなかったが。

 「私は二度ばかりストリップ・ショウを見物したことがある。・・・・私はふっと、今から二十何年も前に、もっとずっと清潔で美しいストリップ・ショウのようなもの見たことを思い出して、むずかゆい苦笑を禁じ得なかった」で始まるこの小編は私なりに興味のあるものであったが、ここにその全文を紹介する紙面はない。

 「女学校についていえば、女学生は自転車に乗ることを禁じられていた」「人目を牽くような事はよろしくない。それに女子の生理の上からも・・・」「校医もその意見を支持していたのだから、医学もまた時代風潮に左右されるものであることが分かる」

 「私の小説(若い人)の中に、妊娠の疑いを受けた女生徒が、校医の所に身体検査をしてもらいにゆく場面が描いてあるが、あれはじっさいに、職員会議でそう決められて、本人に強制された事なのである」

 「私は妻子を抱えた暮らしのために(ここが後で出てくる柿ひとつの句に関係があると読みとれるのだが)、そういう教員生活にも次第に慣れていったのであるが、しかし文学を通して真実の世界に憧れておった若い私は、ときどき堪え難い息苦しさに胸を塞がれる事もあった・・・」と。

 こんなときのすがすがしい女生徒達の「先生。見れ見れ、・・まンつ、おう、可笑しや・・・先生、見れ見れ」「お前達、笑うなや、神様の授り物だすもの、なンす先生」「先生、またやンべな。おら、先生に、親にも見せない宝物を見られてしまったども、先生だからええやすや」と橇滑りに興ずる女生徒達を描いている。

 それから二十年「いま私は、大都会の一偶で、うすら寒い名士の生活を送っている」と「こんな生活、・・その妄想の中に、真白い雪の斜面をちがった白さの少女達の股ぐらが、つぎからつぎとスピ−デ−に移動していく場面も、たびたび浮かび出て来る」と書いていた。

 「間崎(まざき)が勤めている女学校は、米国系のキリスト教会で経営している、自由博愛主義標榜のミッション・スク−ルであるが・・・」で始まる小説「若い人」が昭和42年に全集にのったときの「著者だより」には、「私の出世作と言われている」と書き、「若い人」を書くにいたったいきさつ、その時の気持、そしてそれから何十年もたった時の気持が述べられていた。

 「また、この作品は軍国主義時代、皇室に対する不敬罪、軍人誣告罪などで、ある右翼団から告訴され、それが動機で、作家と教師と、二足の草鞋をずっとはきつづけるつもりでいた私は、学校側に辞表を提出して、作家一本で立っていかなければならない境遇に追い込まれたのである」と。 だからこそ随筆集(昭和39年)に「自分の心境らしいものをよんだ俳句」としてあげている「柿ひとつ 空の遠きに 堪えむとす」が「その心情は、一人の力で暮らせないかというきわめて、卑属なものだったのである」と書いているのだが、私にとっては、この柿ひとつの句にはじめて接したとき、物書きで暮らしていけるかどうかとの先生の気持として受け取られて、心にうたれるものがあったことを思い出す。  

 

昭和49年弘前市常磐坂のりんご公園に石坂洋次郎文学碑が建てられた。文面は有名な句である。

 物は乏しいが空は

  青く雪は白く、林

  檎は赤く、女達は

  美しい国、それが津

  軽だ・私の日はそ

  こで過され、私の夢

  はそこで育くまれた

 私はとても良い句と思った。そのオリジナルが多分弘前市の郷土文学館で展示され見られるものと思っていたが、倉庫にしまってあった。係りの方に出してもらってカメラにおさめた。最近は文学館に展示してあるが。

 平成5年に弘前市で東北連合三田会が開かれた時、私は記念講演「津軽に学ぶ」(衛生の旅Part 6)の中で石坂洋次郎さんがのこした言葉として引用させていただいた。慶応義塾同学の者として。 

「この前半は今も同じだと思います。私として付け加えさせていただければ、私の半生はこの津軽で過ごし、多くのことを学んだ、また学びつつある。そして学んだものを世界に発信できた」と。

 陸奥新報(9.8.9)掲載の阿部誠也氏の「名作に描かれた津軽の舞台」に石坂洋次郎「わが日わが夢」(昭和21)の「あとがき」にりんご公園の碑の文面が掲載されているように読みとれる記事があった。

 「あ−、あの文面はずっと前から考えられたものだったのだな」と早速図書館で確かめておきたいと思った。

 だが「ずっと以前から、郷土に取材した作品を一つの書物に纏めてみたいと思っていたところなので・・・・」と書かれた昭和21年発行の「わが日わが夢」の初版本のあとがきには残念ながらその文章はなかった。

  ではどこにあるのか。いつ頃から考えられていたことなのか。

 「わが日わが夢」書誌稿をまとめられた小山内時雄先生にお聞きしたとろ昭和24年版の「著者あとがき」に書かれていることがわかった。その後の41年版にも、そして文学碑の建設のときのいきさつにも書かれていることが分かった。碑の日付けは昭和49年ではあったが。

 やはり先生の郷土へのノスタルジヤはまとめるとあのようになるのかと思ったりした。

 

 つけたりに一つ。

 石坂洋次郎が弘前市代官町から塩分町へ引っ越し少年時代を過ごし、「わが日わが夢」の中の随筆「壁画」に登場する「S坂」は、塩分町から岩木山の方の下町への坂で、昔は賑わいを見せていたといわれる坂で、今も「さいかちの木」のこもれる「新町(あらまち)坂」と思われる。

 発音通りに書けば「A坂」であるのだが、あの曲がった急な坂は「S坂」と書いたほうが、似合っていると思った(10.6.1.)

     (弘前市医師会報 260, 86-87, 平成10.8.15.)

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