追悼:丸山博先生のこと

 

 本誌公衆衛生(Vol.60)に「21世紀へのメッセ−ジ」として「私の遺言書」を書かれた丸山博先生が本当に亡くなられてしまった。

 新聞には元大阪大学医学部教授の丸山博(まるやま・ひろし)氏が平成8年10月10日86歳で病院で亡くなられていたと15日になって小さく報道されただけだったが、衛生学にとって惜しい方を送ってしまった。

丸山博・光代先生 弘前にて 昭和59.7.27.

 平成7年日本衛生学会が名古屋で開催されたとき学会で世話して戴いたホテルの和食堂で朝食をとっていたら、丸山博先生が奥様、「食卓の健康手帖」の著者でもあり、先生の食の支えでもあった光代様とつれだって食堂へ入ってこられた。弘前での民族衛生学会にもお揃いでこられたこともあって久しぶりの出会いであったのでご挨拶したとき、私は先生にちょっと聞きたいことがあったのでつい口にでてしまった。

 「森鴎外はどうして医学から文学へいったのでしょうね」

 私の問いの背景には、丸山先生が以前に出された「森鴎外と衛生学」(勁草書房)があり、森林太郎はわが衛生学の大先輩でもあり、日本の脚気対策における「高木兼寛」とかかわりがある問題もあり、私が近頃思う「日本百年」「疫学」があった。

 私の突然の問いかけに、先生は一瞬驚いたように、しかしまた明確に私の問いの意味を理解して戴いたように受け取ったのだが、すぐ次の言葉がかえってきた。

 「やるせなかったのだろうね」

 あの嬉しそうなまた人なっこい顔が思い出される。この言葉は先生の言葉として「重要」だと思った。

 しばらくして、それも何日も経ず、みのお市のご自宅からのテガミが届いた。

 「先般三月丗日の(第二四回)日本医学総会・(第六五回)日本衛生学会の空気にふれることで、それに君の質問「鴎外が文学への傾斜について」の私のこたへは、むしろ『医学について社会が鴎外を評価する事の少なさを彼は嘆じて』いることへの同情と共感を衛生学の後進の徒として私は原島教授との共同で勉強できることをたのしみにしていたのに、まさに彼の突然の死で、全くそれが頓挫してしまったのです。そこへ君の質問にギョツトおどろいたね。すでに、そんなことの伏線での質問であったかもしれないが、拙著「森鴎外と衛生学」の一八九ペ−ジ−一九一ペ−ジに君は点火した」「鴎外と東一郎(中浜)のことは、日本の「軍」と「官僚」のなかでの「医」の立場を具体的に語るものまさしく「戦後五0年」にふさわしい反省の資料となるでしょう。私などは、戦前十年の体験についての反省にすぎませんが、歴史的には少なくとも、「日本衛生学会史」の仕事の範囲しかできていませんでした。それも未熟のままです」「最近の病床生活から復活して元気がでてきなした。こんなテガミを夜更けて君に書くことさえできるようになりましたのも不思議です」「私が大学を卒業してから六十年たちました。残余の生命はわずかです。これまでも中途半端のことしかできませんでした。体力も年齢相応にしか発輝できません。無理はできません。ここまで書いてくると肩がこりだしてきました。時計をみると十二時二十分です。これでやめます。まさしく中途半端なテガミですが、久しぶりにお目にかかれた上に、鴎外のことをおたづねいただきそれへのこたへについて、これからの勉強の糧に君の援助を乞たいと思う。お互いにのんびりと思いのおもむくままにおテガミでもかいて下されば、それだけで充分です。では、お休みなさい」

 先生の方が先に「お休み」になってしまった。

                 (公衆衛生,61,518,1997.7.)   

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