人体実験

 

 「人体実験」とはあまり響きのよい言葉ではない。いつも医学あるいは医療を非難するときに多く用いられているようだ。

 今昔のことを、記憶のおかしくならないうちにということで、「覚書」シリ−ズをホ−ムペ−ジ(”直亮”か”naosuke”で検索すると出てくる)に入れているのだが、昔の資料を読み直す機会があった。

 BCGを日本に持ち帰った志賀潔先生の「BCGと私」(朝日:昭26.10.28.)の中で「結核の研究には動物実験では不十分なので人間による生体実験が必要である」という記載があるのが目についた。丁度結核予防法施行にあたってBCG接種の「強制の可否」「有効・無効」が社会問題化し国会で討議されていた時期であったのだが、先生は科学的な立場から、「現在の問題となっている所はこの科学の問題を科学者の十分の検討を待たずして強制接種を法制化した厚生技術にある」「私の見る所では生活条件の向上と衛生知識の普及だけでも結核の被病率はずっと少なくなると思う。しかしこれはわれわれ四島国にあっては早急には望めない事である。とすれば差し当たりは予防法としてBCG接種を中止する訳にはいかない」「一般国民のBCG研究に対する理解と協力が要望されるゆえんである」とのべ「スイスでは国民投票で強制接種を否決しながらも、研究に対する国民の協力に賛成決議をしたそうである」と書かれていた。

 私にも30数年前の経験として、ミネソタでの「わが愛するモルモット諸君へ」という手紙を研究対象者に送っていたことを羨ましく思ったことを書いたこともあった。(日本医事新報:2385,15,昭45.

 また40数年前子供が小さかった頃、予防接種による「ワクチン禍」に厚生省のお役人が「生物学的誤差」と発言したことについて「公衆衛生の健全の発達に必要な考慮:国家的補償」について述べたことがあった。(朝日:昭30.6.2.)

 動物ではなく人間の健康問題を主題に考え、「疫学的研究として、人間が集団として個人として人体実験している姿としてみつめて研究を展開して」きた。そして「病は世につれ 世は病につれ」などと書いたのだが、これからどうなってゆくのであろうか。

 人権の尊重、そしてその中での医学研究の進歩展開を考えなくてはならないだろう。

 「人体実験をして云々」といった非難が最近にもあるときく。どんな形で医学は進歩・展開してゆくことになるのか、わが国では。(20000425)

(一部 日本医事新報,3979,3,2000年.7.29.掲載)

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