満州開拓修練に参加して

 

 僕は学生義勇軍の一員として満州国北安省の二龍山特設修練農場にこの夏(昭和15年)二カ月送って来ました。その農場は今年四月新しく造られたもので、学生の手のみで大豆その他の重要物資の増産が出来るかどうかといふ一つのテストとなったのであります。ですから少数の指導者の下に一切合切全国の大学高専農業学校の学生生徒が一丸となってやり僕等第二回本隊は第一回本隊からバトンを受けつぎ第三回本隊に引き渡しをする迄の二カ月農場の完成に力を入れたのであります。

 数日の八ケ岳農場に於ける内地訓練を終え七月十日神戸出帆十三日大連上陸次ぎの一日を旅順戦跡見学に過ごしそれより一路北上、二龍山の農場に入りました。当地は北緯四八度二分と云いますから樺太の国境とほぼ同緯度であり、まる一日半以上も汽車で入る様な奥地でありながら標高四百五十米と云う事を以て満州が如何に大きな平原である事が分かると思ひます。一望千里遠く五大連山を望む大平原の一角に五キロ(米へんに千)に十キロの面積をもったのが僕等の農場であります。周囲の草原には一面に色とりどりの草花が咲きみだれ実に美しい。それが二ケ月居る間に次第に移り変わって行く眺めは僕等の目をなぐさめてくれました。出来かけの土塁にかこまれた木造舎のアンペラの上に僕等の生活が始まるのです。日曜の五時起床を除く他毎朝四時半ラッパの音と共に飛び起きました。すぐと前日にくんで置いた水で顔を洗い五時の禮拝には皆そろってゲ−トルをつけ裏の国旗掲揚台の前に集まります。君ケ代、勅語奉讀、かなた東の地平線から昇る真紅の太陽に向かって、すめらみことのいやさかをとなへる気持ちは一日の生活の内で最も尊いそして最も思い出深い瞬間でした。大和体操に軍歌の合唱に朝は重要なポイントを持って居ます。それが終わるとその日一日の作業の割り当てがあります。それぞれの小隊の仕事がきまるとすぐと七時迄の食前作業に取りかかります。七時半朝食。八時半から十一時半迄作業。三時迄休養でそれから日の暮れかかる七時半迄作業。八時夕食、九時就寝で一日が終わるのです。この様な生活の内に最も大きな問題は匪賊にそなえての衛兵勤務であったでしょう。当地は目下満州で一番治安が悪いとされて居る所で滞在中にも周囲の部落は頻々と襲撃をくって居ました。それで身の安全を全うせんが為にどうしても銃をとらねばならなかったのです。昼間の絶えざる見張、夜間は実弾をもっての立哨に全員の命をあづかってのこの勤務は鍬をとる以外に又とない良い経験でしたし、何時匪賊がやって来て打つか分らず、ガサッと音がしてもサッと振り向く真暗闇の時の緊張した気持など内地では得られないものだったと思います。農場本来の仕事としてはトラクタ−が開墾して行くあとからそばの種をまき覆土をして行く事と大豆畑の除草が主でした。そしてこれは又非常に簡単といふか単調な仕事でこれがまる一日続いた時もありました。然し二時間も三時間も物をも言はずサクサクと音をたてて皆一心にやる時は自分の気持が非常に落着いて動作が単調なほど心が統一されて行く様な気持がしました。それから燃料の確保の必然の作業として薪木取りがありました。これも内地と違ってつい裏の山にというわけにはいかず一里もの道をめあてに行くのですからこれも一仕事でした。その他駅からの運材に重い丸太を肩にして頑張り、朝つゆにぬれた草をなれない手つきで伐ったり、次第に育って行く蔬菜の間引きをしたり或は泥んこになって馬小屋の土壁をぬったりして最後に僕等の記念事業として土塁土壕の完成に全力をそそぎました。

来島伊三郎君と”ひまわりさん”

 匪賊に対する防備の為にぜひ僕等の手で完成して帰らうと泥まみれになって土をつみ上げ或は水の浸み出る壕を掘り下げて遂にくっきりと弾窓もった土塁をあとにして帰へって来る事が出来ました。又先に云った衛兵勤務の外に色々の当番がありましたが。一切の食事をあづかる三日交代の炊事当番、農具、本部、室内当番等、この他に毎晩各舎に不寝番が立ちました。満州の野に馬をとばし或は放牧し、ダッダッと響くトラクタ−に半日ゆられ或は歩哨に又不寝番に立って北斗七星を眺めたりした事等良い思い出となって居ます。それから食ふ事。これは建設第一年にある農場としてはむりからぬ事ながら非常な粗食にたへて来ました。毎日間引く野菜のみそ汁の連続で又時にみそや砂糖がなくなったりした事がありました。塩鮭一切が一番の御馳走だったでしょう。然し気候や食物になれて来ると食欲も進み作業がすむと飯がまちどほしく、こんなうまい飯をくった事がない等と思った事もありました。大体はこの様な生活をして行く間に三日がかりで大黒河国境を見学し、日曜日ごとに北安市街大連寺という満人部落開拓団など見学を行ひました。次ぎに満州の生活で感じた事二三をのべて終わりとします。

 今年の春内原の訓練に参加してやはり学生も積極的に心身を鍛錬しなければならない。将来医者として立つ身ではありますがその前に心や身をきたへなければならないと考へ夏の修練に飛び込んだのです。勿論満州でどの様な生活が送れるものなのか、どんな仕事が荷せられるか、衛生状態はどうかなど何も知りませんでしたが、一つあたへられた仕事はそれがどんな事でも進んで受けて不平を云わずやって来よう。だまって与えられた仕事をやり通す事が何より大切な事だと思ひ体の方に幾分の心配はありましたがとにかく出来るだけ頑張って来ようと出掛けました。向ふでの生活は勿論今迄の経験にないほどはげしいもので仕事はなれないしつらい事はつらかったです。然し皆進んで修練にやって来た者であるしその点では一致して居たので不平もあまり目立たず僕自身にしても重い丸太を運び終えたあと、土塁の完成など肉体上のつらい事をやりとげたあとの気持、又色々と不平も云いたくなる様な時にもぐっと口をふさいで居ると知らず識らず通りすぎてしまふなど色々経験する事がありました。何にしてもつらいと思われる事にぶつかって行く積極的な気持と一度それを受けたならどこまでもだまってやり通す、本当に一兵卒になり切ってやり通す事が大切であり然る後には気持の上にも身の上にも一段と廣さをまし鍛へられて何事にもまけない自分が出来て来るものだと思います。色々と今日の有様にしても自ら局外に立って居る様な言葉を弄せずその中にある身としては積極的に力を尽くすのが大切であり又どうしてもやらなければならない事だと思います。今後とも学生義勇軍も拡大される様ですから積極的に訓練に参加せられ一つの体験を得られん事を希望します。(十五・十・十)

 (飛鳥 第6号, 2-4, 昭和15.12.20.掲載)

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