「西目」覚書

 

 「西目」とは秋田県由利郡西目村(現西目町)のことである。

 昭和32年7月8日秋田市で第6回東北6県地方公衆衛生学会が開催された時、私が「東北地方農村の血圧の高い村と低い村との比較検討」を口演発表したあとだった。一人の女性が近寄ってきて話かけたてきた。この人が西目村の保健婦の佐藤トキエさんだった。この時村の「高血圧対策」について相談をうけたのがきっかけであった。

 昭和32年7月という時は、昭和29年に高橋英次先生らと「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防に関する研究」を始めて数年たった時であった。

 「死亡率の検討」そして「脳卒中の公衆衛生学的問題点」を考え、「東北地方住民の集団的血圧測定」を各地で行い、「室内暖房に脳卒中予防の可能性」を考え、食生活についてNaとKの測定が可能になり、「食塩過剰摂取の疾病発生的意義」を考え、31年には衛生学教授になり、「疫学からみた私達の健康問題」を32年6月に弘前大学祭・学術講演会で講演したばかりの時であった。

 「狼森」覚書に述べたように、700名近くの小部落での血圧観察研究は始まったばかりであったが、村という単位での「高血圧対策」には魅力があった。勿論世の中にきまった「高血圧対策」のマニュアルなどあろうはずのない時代であった。

 「とりあえず村へうかがいましょう」という約束だけをして別れた。

 そして32年7月29日始めて西目村へ助手の福士襄君と一緒に予備調査と称して訪問した。この時の数々の写真をスナップしてアルバムに貼った。

 

 西目村は有能な指導者たちによって、明治・大正・昭和と、健康農村への着実な歩みをつづけている村であることが分かった。

 「西目村といえば、農政を語る人で知らぬ者はあるまい」とまでいわれ、戦前より自治模範村として知られ、戦後も専門家の手によって、行政的見地から、村の経済的分野について詳細な調査が行われいることが分かった。

 そして昭和30年5月若い斉藤弥兵衛村長が就任して「健康農村建設」が村政に大きくとりあげられた時でもあった。

 

斉藤弥兵衛西目村村長(昭32.8.)

 狼森覚書にも登場した「岡治道先生」が近くのじねごに疎開されていたこともあり、秋田結核療養所の黒川先生との関係か、西目村の「結核対策」については指導があって、ほぼ村民全員結核検診を受けるなどすでに軌道にのっていた。

 昭和31年に国民健康保険が実施され、村民の死亡内容が検討され、いわゆる成人病の割合が増加の傾向にあり、とくに死因の順位の第1位が「脳卒中」が村の問題とされていた。昭和32年4月に国保保健婦として佐藤トキエさんが着任したばかりというタイミングであった。

 西目村は秋田県の西南部に位し、その西部は日本海の沿岸線をなし、おおむね平坦な田畑地帯を主とした農漁村である。村の部落は浜通りといわれる海岸線に接した半農半漁の4部落、中通りとよばれる純農村の5部落、戦後開拓された部落と駅前の商業街の11部落からなっており、昭和35年の国勢調査で5679名の村であった。

 秋田から山をこしてどちらかというと山形県に近いということで、典型的な秋田県農村ではなかったが、一つの村に内陸の純農村、海岸側の漁村、市街部落、満州からの引き上げ部落、そして幼稚園小学校中学校一つという村であったことは、それぞれの生活状況との血圧関連を検討するのには魅力のある調査対象地域であった。

 丁度われわれはそれまでの疫学的研究から、東北農村における高血圧対策のあり方について検討の必要性を考えていた時でもあった。

 一般住民の血圧の長期に亘る観察、とくに若い時からの血圧の観察が必要と考えていた。そのうえ季節的変動もあるだろう。脳卒中で死亡した人ではなく、罹患という発作をおこす人がどれだけ実際にあって、またその人が発作をおこす前のいわば健康な時の血圧はどんなものなのかということも知りたかった。高血圧対策といっても当時予防医学でいう5つのレベルといわれていたその中の、患者の早期発見や即刻治療という一般に行われている対策ではなく、われわれの疫学的研究や血圧論からその必要が考えられる健康増進について何か打つ手がないかどうかということが私の頭にあった。

 そこで「まだよく分からないことが多いから、5カ年位つづけなければならないでしょう」という意見を述べた。村でその予算処置ができるかどうかということになった。なにしろ秋田県全体でも高血圧対策に予算はついていない時代であったから。

 「中学生以上の全住民の血圧を夏と冬年2回測定し、生活調査を行い、5カ年に亘って観察することを主な作業として、その間に、それまでに得られた疫学的所見を生活の中に活かしてゆくことを目標にした衛生教育を展開するという高血圧5カ年対策」を行うことにした。

 村の予算の詳細は知らないが、私を含めての教室員2,3名学生5名の弘前からの往復旅費、若干の謝礼金、約10日間の滞在ははじめ小学校校長住宅、後に公民館での合宿であった。そして夏冬年2回5年間の調査研究という計画であった。学生には休み中、飯がたべられ少しお小遣いがもらえる結構なアルバイトではなかったか。われわれも夏冬一寸したボ−ナスでもあった。

 10日にわたって、部落部落の集会所に集まって血圧測定を行い、中学校でも生徒に記録係りを手伝ってもらって血圧測定を行った。なにしろ生まれて始めて血圧を測るという住民が大部分であったが、その測定された血圧値の告知およびその処置について当時の常識に従って一人一人説明する役が私か武田助教授であった。そして最終日村役場で行われた衛生班長との反省会では、脳卒中や高血圧について、その時その時の私の勉強したことを喋ってきた。また中学校での講演会もやった。弘前の桜などのスライド上映は子供達の興味をそそったようであった。クリ−ニング屋さんに出したYシャツに「ケツアツ」とぬいつけがあった話、運動会で「ケツアツゲ−ム」をやっていた話などあった。

 血圧測定は学生諸君にお願いした。血圧に関する生体情報をそのまま記録することであったが、各学生の測定値の末尾の数字を個人的に集計してチェックしたこともあった。

 方法は前に自分が測定者であった経験もあり、集団的血圧測定の場合どのように測定し、どのように記録するかについては、弘前医学(11,704,昭35)に書いたが、自分としては国際的にみても最も進んだ考え方で決めた方法によったと思っている。しかし後に海外に行ったときにはその値が信用されないという印象をうけたことが「自動血圧計」(日本医事新報,3542,64,1992)を考えることになった。

高瀬・佐藤・斉藤・鷹島さん(西目駅にて、昭34.8.)

 5カ年が済んだあと、「東北一農村における高血圧対策の評価」(公衆衛生,28,155-162,昭39)としてまとめた。

 その論文の中には西目村の「脳卒中死亡率の検討」「生活調査と血圧調査」「衛生教育の内容と方法」を述べ、5カ年間の「脳卒中死亡率の推移」「住民の血圧の推移」「住民の生活の変化」そして「高血圧対策のまとめと今後の問題」について報告した。

 「これらを総合して考えると、高血圧対策としては、集団的に血圧測定などのよって患者を選びだし、医療への橋渡しをするという現在広く一般的に行われているやり方のみにとどまることなく、一般的健康増進の具体的方策としての生活改善から、脳卒中患者のリハビリテ−ションまでの一貫した対策がとられるべきであり、また人をして高血圧状態にする要因の探求、脳卒中発作をおこす直接的要因を探求する研究が平行して行われるべきである」と結んだ。このまとめは「高血圧対策」は「健康な村づくり方式」であろうということであった。

 われわれが問題にした若い働き盛りの60歳前の中年死亡者が少なくなったこともあり、中学生の血圧も発育はよくなったのに血圧は低くなったこともあって、村ではもうしばらくつづけて下さいということになった。

 10カ年経過したあと「東北一農村における高血圧対策の評価・補遺」(日本公衛生誌,14,1200-1222,昭42)にまとめて報告した。

 この間住民の血圧が個人的にどのような推移をとったが明らかになり、脳卒中やその他の死亡者の生前の血圧が明らかになり、毎回血圧測定と一緒に調査した生活条件との関係についての資料が得られたことについて報告した。私が在外研究に出張した期間も武田・福士君がつづけてくれた。

 昭和41年になって日本循環器管理研究協議会が誕生し、地域に於ける「循環器疾患を対象にする健康管理方式」が検討されることになり、全国の各地で展開され、社会的基盤が整備される時代になった。その方式は必ずしも私たちが考えたきたこととは一致はしなかったが、「ただ血圧だけ測って」ということでは、住民をなっとくされることにはならなくなったと考えた。昭和50年8月でそれまで継続されてきた西目村の血圧検診事業も、もうその時は町になっていたが、地域の社会資源による検診方式へ転換することになった。

 その間西目村は保健文化賞をもらい、その賞金で検診車をかった。

 村長さんが第一生命へ受賞を受け取りに上京したとき、靴だったか長靴だったかどろまみれの靴で壇上にあがって、正に田舎から出てきた村の村長さんの印象であったということであったという。村長さんご本人もそんなに大きな賞だとは思わなかったとささやいていた。

 私にとっても西目村での研究によって多くのことを学んだ。多くの発表・論文も書いて「ギブアンドテイク」の研究であったと書いた。西目村に関する研究で学位記をもらった先生方も多くいた。

昭和45年9月1日西目村記念日に感謝状を戴いた。ちょうどロンドンで開催された世界心臓学会へ出発する前であった。

 町から秋田名物の銀細工の記念品を戴いた。長いことご苦労さんでしたということであった。

 私も停年が近づいていたこともあって、約20年に亘って観察できた弘前市狼森と尾上町金屋の資料を含め西目村の血圧観察資料としての長期追跡観察の記録を弘前医学に纏める仕事がのこっていた。(20000130nishime)

(弘前市医師会報,271,78−81,平成12.6.15.)

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