「狼森」覚書

 

 「狼森」「おおかみ」「もり」と書いて、「おいのもり」と土地の人はいう。「狼の森」「狼ノ森」と「の」や「ノ」が入ることもある。そして土地の人は「狼森部落」という。

 わが国では「邑」「むら」が古い言葉のようであるが、この土地の歴史・郷土史については素人の私がここで「おいのもり」について記そうと思うのは、昭和29年弘前大学医学部衛生学教室へ助教授として赴任して以来、覚えたことの記録をここに残こそうと思って書いているにすぎない。

 昭和30年だったか、NHK弘前放送局での放送を頼まれたとき、「狼森部落」のことを紹介しようと思ったら、「部落」という言葉は使わないでくれと言われた記憶がある。いわゆる「部落問題」に関係することで、関西の篠山に疎開していた両親から、その言葉のもつ意味について聞いていたから、おぼろげながら承知はしていたが、この土地の人々が自ら言っている言葉が禁句であるとは、どうかと思ったが、申し出に従って「地区」とか「地域」という言葉に変えて放送した。

 「疫学事始」や研究にちなんだ「覚書」に書いたことと重複することも少々あると思うが、ここでは「狼森」にしぼって書くことにする。

  

狼の森保健館(昭30.9.)           鳴海康仲先生(昭30.1.)

 今、弘前市山王9−4にある「狼の森保健館」がこの記録の舞台である。

 市内品川町にある鳴海病院を開かれた鳴海康仲先生がつくられた「保健館」である。

 保健同人生活教育(1983.11.)掲載の特集「津軽の地域保健活動を語り継ぐ」(座談会)の中で鳴海吾郎先生が「康仲はその頃(昭和10年代)から、農村衛生に関心を払っていて、農村のひとたちの生活がよくなれば保健衛生は向上するという信念をもち続け、狼森(おいのもり)部落を活動の中心地、今で申すならモデル地区として具体的な活動をいたしました」と述べている。テレビドラマの「いのち」の中で「これからは農村医学だ」と語らせていることとだぶる思いである。

 この座談会の司会をした武田壌寿弘大教育学部教授が昭和29年弘前大へ赴任する前の年、近藤正二先生のおともで仙台から虎ノ門の共済会館で開かれた第1回の健康農村建設協議会へ出席したとき始めて鳴海康仲先生の「大講演」を聞いてすっかり感銘した話が語られいる。

 「巖城を仰ぐ」(鳴海康仲先生追悼の記.昭53)によると「昭和16年狼森保健館を創設し館長となる」とあった。

 昭和40年8月に第35回日本衛生学会総会を出来たばかりの弘前市民会館を会場に開催したとき、新しい試みとして「市民招待一般公開講演会」をもった。

 その中で「津軽の医学と文化」(日衛誌、20(3),186-236,1965.)の司会をしたが、鳴海康仲先生には「健康の村づくり」について講演して戴いた。録音をとっていてそのまま記録に残したので、講演そのものを聞く思いであるが、その中で「狼森」における実践保健活動の詳細について述べられている。

 また「狼森」がここに至ったいきさつについては、「衛生学開講25年誌」(昭和47年)の中で鳴海康仲先生の「弘前における保健活動の人脈と青森医専誕生まで」に詳しく語られれいる。

 その総てを再掲することはしないが、鳴海先生と多くの先生方とのつながりが語られており、「狼森保健館」を訪れたことのある先生方は多く、とくにわが国の保健衛生関係の関係者が多く訪れていることが分かる。私が教授になってすぐの昭和32年7月「新八会」(新設八国立大衛生公衆衛生教授の会)の先生方が弘前に来られたときもご案内した。

 「私どもが大正12年秋に宮川薬店の2階で、診療と健康相談を開始して」

 「昭和の初めから・・昭和10年頃のことでした」「或る日朝日新聞で、京橋区に保健館が、・・開設されたという記事を見たのです」「そこで、今は既に亡くなった弟の顕を呼んで、おい、この新聞をごらん、ここでどういう仕事をしているのか、行ってみてきてくれないか、・・・」

 「それから野津謙先生との関係ができたのです」と語られている。

 鳴海康仲先生は「養生会をつくられた伊東重先生の門下生で」ある。

 「私共は幸いにですね、郷土の大先輩、伊東重先生の御指導を仰ぎ、更にまた近代科学的な御勉強をなさいました野津先生の御指導御協力によりまして、わたしどもの仕事ってのが次々と拡大することが出来る状態になったわけであります」と。

 公開講演会の中で小野定男先生には「伊東重先生と養生会」を語って戴いたが、その中で伊東重先生と養生会のことが詳細に記載されている。

 「明治10年代、東大医学部に学んだ伊東重先生は、進化論を始めてわが国に伝えたモ−ルス氏の講義に列らなり、生存競争、優勝劣負、自然淘汰の理を聞き、始めて養生の理を研究する端緒を得た」とある。それが伊東重先生の「養生哲学」になった。

 鳴海先生らが取り組んだ仕事は「結核」対策であった。

 「昭和13年に始めて集団検診をやったのです」

 「昭和15年の・・でこの時にですね、また野津先生がおいでになって(結核の予防注射が出来たんだ。B.C.G.が出来たんだからやったらいいじゃないか。やるべきだ−−60%近い陰性率(ツ反応)をもっている地区では、もう1日もゆるがせにならないんだ)」

 私が学生時代衛生学で上田喜一先生(当時助教授)からB.C.G.のことを講義で聞き、そのあとすぐ信濃町から水道橋の結核研究所へいって先輩から当時水性であったB.C.G.をうって戴いたのが昭和15年だから、最新の知識がこの弘前へも伝わっていることがわかる。

 「岡治道先生を紹介しよう・・」と「隈部先生を帯同して弘前へおいでになりました」 結核についてのわが国で当時最も進んでいたと考えられる「結核学者」がこの弘前の「狼森」にこられている。宿は大鰐の加賀助で「この25番の部屋は、青森県の保健衛生の企画の拠点となりまして」であった。

 岡治道先生は東大の教授であったから、学生時代にはお目にかかったことはなかったが、国立公衆衛生院での教育の場で教わったことがあった。また弘前へきてから大鰐の加賀助でもお目にかかったこともある。また後日秋田の西目村の保健活動に参加したとき、近くに疎開されていた岡先生の西目村での結核対策の話の録音をテ−プに取ったこともあった。

 「野津先生から医界新体制協議会をつくるから上京せよということになりまして、その発起人会に出席しました」(昭和17年)

 「そこで暉崚(てるおか)義等先生と知り合い、先生を通じて、人脈がのびたのです」とあった。 

 後日暉崚先生らが主宰されていた「健康社会建設協議会」を昭和33年8月狼森を会場に開催されている。

 「狼森」を日本中に有名にした「かちゃ九時運動」があった。

 「昭和24年、東京でこの話を朝日新聞社でしたら、(かちゃ)とはなんぞや、と聞かれました」「斉藤弥一君といいましてですね俗称狼ノ森社会大学の学長、佐々木先生、中村先生、その教室の方々が皆医学調査においで願っておりますが、この大学教授の方々は、皆生徒さんであります。(ん−−九時に寝たら良かろう。かあちゃんを九時に寝かせたらよかろうというんです」と語られている。母子保健に関するキャチフレ−ズであった。  そして暉崚義等先生が弘前に来られた時に書かれた「 かちゃ九時だ おふくろ急ぎ床に入る 弥一農家に幸多かれ」の掛け軸が保健館にかけられていた。

 昭和20年6月19日、当時青森市にあった青森医学専門学校において近藤正二先生(東北大学教授)によってはじめて衛生学の講義が行われている。

 終戦になった時タイにおられた高橋英次先生がガリ版新聞の中で”青森に医専ができた”という記事をみている。

 「学校へ行きたいと思っていました。いいなあと思って帰ってきてみると校長が丸井先生でしょう。山本先生・松永先生(注:同級生)二人来ているでしょう。でしらん顔して振りして近藤先生に医専が福島にも秋田にも青森にも出来たけど、そういうところに衛生学がないようだけれどもっていったらね。青森医専がある。僕にどうだといわれるので、それでお願いします。それから松永先生にもいろいろ相談してね。そしたら丸井先生が近藤先生のところへ来て、(あんたのところの高橋君をもらいたい)(そりゃ賛成だ)ということで来たんです」「辞令がでたのは2月でしたね」という記録がある。

 丁度医専が青森から弘前への移転のときで、高橋先生から聞いた話では、先生が弘前駅に降りたときの迎えは鳴海康仲先生で、それも弘前でも珍しかった「キャデラック」でのお出迎えであったという。

 衛生学教室日誌は昭和22年2月14日高橋英次文部教官として発令、4月16日着任とあった。

 「予防医学談話会」とか「食生活調査の為出張」など記録にあるが、狼森へは昭和27年6月21日教室員研修生そろって出かけりんご袋かけ作業にあらわれる疲労の調査を行っており、その時の研究は弘前医学に「農村衛生研究」として報告されている。

 私が弘前へ着任早々昭和29年5月20日ホリド−ル中毒検査のため狼森部落へ、そしてその後続くことになる血圧調査の第1回目が昭和29年8月10日に行われている。

 いわゆる「フィ−ルド調査」は地域住民との接触からその第1歩が始まるが、われわれの場合にはそれまでの「人脈」があって、私の来たときには、すでにその苦労はなく、助教授として、なんの抵抗もなく、狼森部落の方々と接触できたといえる。 

 高橋英次先生が仙台へ転勤されたとき、狼森の方々による先生の送別会があった。

 

(高橋先生送別会・狼森にて・昭31)

 平成9年5月私の医学部同級会の不二会の一行を十和田・弘前への旅行に案内したことがあった。この時の話を「弘前旅行めい言集」としてまとめた。

 「アップルロ−ドの このスポットは 1時間も2時間も話のできるエピソ−ドのある場所です」

 「(日本)新聞を創刊した陸羯南(くがかつなん)の(名山出名士)の碑もこの上にあります」

 「東北地方公衆衛生のメッカだった(いのち)のモデルになったといわれる保健館」

 「昭和29年に子供から老人までの約700名の狼森(おいのもり)(部落)民の血圧を始めて測ったところ。尿中Na.Kを炎光分析で始めて測って 塩のとりすぎは悪いが りんごは高血圧・脳卒中の予防になるのではないかとの発見のあった歴史的な場所」

 「佐々木先生 佐々木先生・・・」とガイドさん。 「ノ−トに書き留めて勉強しておきます」「あなた ずいぶん売り込みましたね」とはそばから一言。「でも事実だからね」

 「先生のガイド料は とても高くて 払い込めません」と服部君。

 「今に (佐々木ロ−ド) ができるかも」と塩路君。

 「昔金の胸像が立ちますよと云われたことがありました 趣味じゃないけど」

 

  

血圧測定風景(昭33.9.)            鳴海顕先生ご夫妻

 私にとって最も印象に残ることは、血圧調査に訪れた狼森保健館の片隅に飾られてあった鳴海顕先生ご夫妻の写真と終戦後狼森の後ろの小高い山で自決された時の辞世の句であった。「一切は 真白になりぬ 今朝の雪」とあった。(20000127oinomori)

(弘前市医師会報,271,76−78,平成12.6.15.)

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