こちらに、私、佐々木 修の5代上の先祖八木伴蔵重則の扇と和歌を紹介します。
八木伴蔵重則【1778年(安永7)-1853年(嘉永6)】は佐々木家の過去帳に記載があります。それによると、私の曽祖父である佐々木和亮(1851-1923)の母方の祖父にあたります。
八木伴蔵は丹波篠山城主青山下野守の家来で祐筆(秘書室長)兼学校頭取能筆(学校長)を務めました。 1824年(文政7)4月2日に江戸後期の歌人としてゆうめいな、清水浜臣(しみずはまおみ,1776-1824)の主催した泊洦舎扇合(ササナミノヤオウギアワセ)に出場した作品です。
西尾市岩瀬文庫に泊洦舎扇合の上写本全3巻 が保存されています。
清水浜臣の泊洦舎で催された扇合の記録。全51番。種々の趣向を凝らした扇の彩色画に、趣向の解説文と和歌を添える。半丁1図1首、見開の右面が左方、左面が右方。図は金銀泥や砂子を用い、細密。この26番右に八木伴蔵重則の作品が確認できます。
また岩波書店『文学』2012年5-6月号(P.198)では以下に紹介されています。
八木伴蔵重則の、(37)竹の扇かけに、えびかづらを書て、実をばびいどろして物したるに、あふぎは銀地にて『えびかづら しげる棋実のこむらさき こよひの月の色とみまがふ』 では、びいどろ(ガラス)で作った葡萄が用いられている。 葡萄文様は、奈良時代にはすでに伝えられていたが、江戸時代にはさまざまな工芸に用いられるなど、時代的にも好まれたデザインであった。また、成徳年間(1711-16)頃、江戸にもガラス作りの製法が伝わったとされ、江戸の地での加工も可能であったかと思われる。 「えびかずら《(葡萄葛)や葡萄が和歌に詠まれる例は見出せず、月の色が紫であるという歌も、仏語「紫雲《を和語化した「紫の雲《との関連で詠まれる例以外に極めて少ない。 この扇の作者は、月題から作り物を考案したというよりも、ガラスを用いて扇を装飾することをまず思い立ち、銀色の扇を月に見立て、そこに紫のガラスの色が映り込んでいるのを紫の月と表現したのだろう。歌よりも作り物が先行してできたため、珍しい表現による和歌になっているものだと考えられる。
八木伴蔵重則は1853年(嘉永6年)6月29日に亡くなりました。享年79と当時としてはかなり長生きです。専修寺(現在は移転していますが、赤坂一ツ木町銭鍬台〜赤坂5-2-45)に葬られました。八木伴蔵の生地は記載がありませんが、篠山城主青山下野守の家来だったこと、また妻の藤(1789-1871)が篠山に葬られていることなどから、篠山生まれと想像できます。八木伴蔵が使えた篠山城主青山忠裕は徳川家康に信頼され、老中職を通算31年以上勤めました。現在の港区青山は、青山家の広大な屋敷があった場所です。これからも八木伴蔵は青山のブランドを十分使ったいい仕事をしていたと想像できます。
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