銃問題を考える

 

 わが国でもアメリカでも、銃に関わる殺人事件があって、この問題について書いておこうと思った。

 目の前の人にピストルを突きつけられたら「あなたならどうする?!」と考えてみた。

 そんな経験はないけれど、「自分は殺される!」と考えるだろうと思う。次の瞬間に相手が引き金を引けばである。

 自分が死んでしまえば「それまで」であり、痛くもなければ、あと色々悩むこともないと思う。

 「死」はその理由が何であれ、その人にとっては「同じ」であろうと思う。

 「原爆」であろうと、「爆弾」であろうと、「ピストル」であろうと、「列車事故」であろうと、「薬物」であろうと、「病気」であろうと、その人にとっては「死」は「同じ」であろうと思う。

 残された人、「遺族」と言われる人にとっては、その「死」の状況によって色々な思いをもつであろうが。

 前に「他殺と自殺」について書いたことがあったが、人口動態統計が発表されたこともあって、「自殺」が多いことが問題だと「自殺問題」が言われることが多い。

 何が問題なのだろうと考える。「自殺」を容認するわけではないが、「自分の意志」で「死」を選んだ方を非難する気にはならない。むしろ「自分の意志」で判断したのだから、うらやましい気さえする。

 深夜放送で「看護師」の方の「うつ病看護」の話があって、「うつ病で自殺される場合が多い」が、「うつ病」は「病気」であって、「薬物」で「治療」できるものだと言っていた。「精神医学」の進歩のあとは「不勉強」なので、自分としてはこの話を「納得」したわけではないが、「チェック・リスト」に該当するものが今の自分にはまだないと、前に「P・・・先生のピストル自殺」のことを思いだしながら聞いた。

 「他殺」こそ問題だと考える立場である。

 その原因には色々あると考える立場である。

 その最たるものが、身近にあるものを挙げるとすれば「銃」か「刃物」ではないかと。「大量殺戮兵器」は勿論ではあるが。

 アメリカの場合、憲法の中に、「自分の身を守るために」「銃の保持」が認められているという。建国時代のことを思うと、それなりに「納得」される条項ではあるが、いつになったら「修正」されることになるだろかと思う。 

 今日ニュ−スを聞いていたら、バ−ジニヤ州で、「精神科治療の前歴のある者をデタ−ベ−スにいれて、その人に銃の販売を禁止する案」を知事令で出したという。まあアメリカではそこまでであろう。だからまだ当分「銃」問題はつづくであろう。

 わが国では戦後「兵器の保持」はうるさくなったので、「特別の人」だけにその保持がゆるされているだけだと思う。その使用がどんな場合に「現行憲法」の中で許されるか、「国連」とか「アメリカ」とかの関係で、「集団的自衛権」の問題として論じられる時代になった。

 でも「国連」とか「同盟国」との関係だけですむのであろうかと考える。

 地球上の「人」「人々」であってほしいと思う。その人・人々が「殺される」ことをみのがしてはいけないと自分では思う。今は「国と国」の間の「戦争」はなく、「テロ」といわれる「殺し合い」が続いている狂態である。

 「暴力団」と言われる人たちに間に「銃」が出回っているらしい。

 そんな「銃」に殺されない世の中になってほしいと思うだけである。(20070503)

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