卒業50年(医学部3回生)(三二三会)に出席しての挨拶

 (平成19年4月29日 5−8時 シテイ弘前ホテル)

 

 卒後50年だそうで おめでとございます

 このような会によんで戴いて 生きて 皆さんにお会いする機会を与えていただいてお礼申しあげます

 上野発夜行列車おりたときから・・・という言葉がありますが この歌ができる大分前 昭和29年に弘前へ参りました

 当時 皆さんはすでに 弘前におられたのであります

 土手を通って 本町の坂をあがって 火の見櫓のところをまがると 医学部の校舎がみえました もと朝陽小学校の建物で あとで解体するときに分かったのですが 総檜づくりでした 

 二階の校長室の部屋に衛生学の高橋英次先生がおられました

 となりの小さい部屋を戴いて 私は助教授として参りました 

 すぐ隣は細菌学の山本先生 そのむこうに法医の赤石先生 一階には解剖の工藤・照井先生 病理の佐藤・臼渕先生 また生理の佐藤・中村先生 生化学には檜山先生 薬理には角田先生があられました

 通りをへだてて 煙突の印象がある 臨床の先生方の部屋がありました

 内科松永・大池先生 外科副島・槇先生 整形諸富先生 婦人科古賀先生 小児科の荒川先生 眼科に入野田先生 耳鼻科に片桐先生 放射線科に高橋信次先生 皮膚科の杉山先生 精神科は和田先生がこられたばかりでしたか

 まさに弘前大学医学部の基礎を創られた先生方でした

 当時全学をあげてのテ−マは「シビ・ガッチャキ」でした

 衛生学では「口角炎」を青森県内秋田県内と調べて歩きました

 そのとき一緒に私が測り屋で血圧を測定しました

 これが後の「高血圧の疫学研究」につながったわけで まさにはしりの時代でした

 いつでしたか 私のうしろで記録係りをしてくれている写真がありまして 「高世君」ではないかと書きましたが 秋田から 「自分です」とお電話を戴いたことがありました

 亡くなった松山君らと合唱をしたことがありました

 木村君らが社会医学研究会をやっており 後に保健医学研究になりました

 私は始めて講義をしろと高橋先生からいわれたのは「医事法制」でした

 階段講堂にいきましたら 一人 前に座っている学生がおりました

 その方の名前・顔は記憶にはないのですが その君を前に講義を始めたことを 今思い出します

 それから色々なことがありました・・・

 最近は早寝をすると12時近く目をさまし 深夜放送を聞くことが多いのですが 先日今君の放送を聞きました 再放送も聞きましたが 感心しました

 私はHPを創っておりますので ご覧戴ければ幸いです

 昨年は「オタク老人のひとりごと」をいれました

 そろそろ筆をおこうかと考えておりますが

 今年になって 「直亮のひとりごと」をいれておりいます

 「Google」で検索すると「naosuke」のHPが出てきます

 会のプロロ−グの話をしましたが・・・今日は皆さんのご苦労の足跡を聞かせて頂きたいと思います

 ありがとうございました(20070429)

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