「あゝ上野駅!」から

 

 弘前市出身の歌手井沢八郎さんが亡くなったというニュ−スがあった。

 「あゝ上野駅」は井沢さんが歌ったヒット曲、日本経済の高度成長期だった1960年代、地方から上京した集団就職者、いわゆる”金の卵”たちの応援歌だった、と新聞は伝えていた。関連のあることを書いておこうと思った。

 「上野発夜行列車降りたときから・・・」の「津軽海峡冬景色」が出る前であるが、私は弘前へ赴任してきた。上野駅には数々の思い出があるがあとにゆずろう。

 昭和40年5月新しく出来たばかりの弘前市市民会館を会場に第35回日本衛生学会を開催した時のことを思い出す。

 「学会こぼれ話」に書いたことなのだけれど、5月14-16日の3日間を早くから会場の予約をしていた。この年RAB(青森放送)が「りんご花まつり」を計画され、なんとか会場を都合してくれないかということであった。大ホ−ルの方は15日は丁度あいていたので都合したのだが、そのときの目玉の歌手が井沢八郎さんであった。 

 学会の受付にきた方に”井沢八郎さんの名札”をさがしてもみつからなったというエピソ−ドがあった。

 その時以来「井沢八郎」という名前を認識したことが思い出される。

 若い人たちを次々と「集団就職」に送り出す風景が繰り返され、「金の卵」という言葉が使われていた。

 当時の青森県はまだ乳児死亡が多かったし、丸山博先生の「死児をして叫ばしめよ!」の問題意識があったからであるが、日本医事新報に「乳児ダイヤモンド論」を書いた。

 「ところが、青森県内で、これから12月まで、300以上のダイヤモンドが失われることが予想されるのである。ああ!」と書いた。

 「多産多死」が普通であったので、最近の「ショウシカ」という言葉をきくと、「少死化」とイメ−ジをもってしまうのは「年」のせいであろうか。(20070128)

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