「いじめ」雑感

 

 「いじめ」問題が「子供の自殺」問題とあいまって、現代日本の社会問題化しているかに見える。

 何が問題なのか、見つめてみたいと考えた。

 前に「他殺と自殺」については書いたことがあるので、ここでは「いじめ」について考えたことを書いておこうと思う。

 「弱いものいじめ」という言葉はよく聞くが、「強いものいじめ」という言葉は聞かない。とすれば「いじめ」の本質は「力関係」ではないかと考えた。

 「力関係」というと、何も子供の世界ばかりでなく、大人の世界にもあると思うし、その中で、社会の中で, 生きてきた思いが自分ではするのである。「とかくに世の中はすみにくい」のであるが。

 子供は大人より弱いから、大人が子供をいじめ、時によっては殺す場合もある。子供が強くなればその関係は逆転する。ある有名人が子供のとき親から殴られて、こんちきゅくしょうと思って、ボクシングをならって、大きくなってから親をなぐり返した話をしていた。

 「愛のむち」の解釈は難しい。「鍛えた親」が感謝されるかどうかは「紙ひとえ」である。アメリカからきた「力士」が相撲修行で鍛えられたとき、「日本人は原爆をおとされたから、そのしかえしにおれを虐めるのか!」といっていたとか。最近の放送で、耳にはいってきた話である。

 今はもうあまり聞かなくなった「よめいびり」という言葉も、時代がかわって、「力関係」が逆転したからか。

 「いじめ」を受けた側のほうが問題になっているが、「いじめ」をやる方の姿が見えない。

 「番長」という言葉に記憶がある。「20世紀の日本で、中学校や高等学校の不良少年のリ−ダ−格を指す言葉」とあったが、私の小中時代には体験はなかった。

 「やくざ」の世界の風習は分からないことが多いが、「親分子分」の関係は縦の「力関係」ではないだろうか。それでいて「この紋章が目にはいらぬか」ときりがあって終わる番組がつづいているのはわが国の特徴かと思う。 

 軍隊は完全に縦の世界である。陸軍で下のものをよく虐めたものだ、いじめられた経験を聞いたことがある。私は海軍ですぐ士官になったからその体験は全くなかった。

 北の問題はほとんど分からない。工作員といわれる方は、自分の意思で工作員になったのかはわからない。「独裁国家」の特徴か、「力関係」のしくみが国の中に出来あがっていると理解できる。

 国は「情報」を求めようとする。「情報合戦」であるのが現実であると思われる。世にいう「スパイ」事件なども、本人の確信なのかどうかはわからない。

 昔の「人質」などは、今の理解では「卑怯な行為」である。

 戦国時代・関ヶ原の戦いは正に「力関係」である。「功名が辻」はその中に生きてきた人を書いた「シナリオ」と観た。

 徳川の世になって、地方の諸藩が江戸ずめをしたのをみると、「力関係」のような氣がする。江戸は大半は「」武士」の町であったとかで、維新のあと「士農工商」の武士階級はなくなり人口が減ったのだと江戸の老舗の息子がラジオで言っていた。

 「門閥制度は親のかたきでござる」といった福澤諭吉先生の気持ちがわかる氣がする。

 その福澤先生ですら「圧制を行う人間最上の愉快と云ふて可なり」「人間の天性」と書き、「我が輩の志願は此圧制を圧制して」と書いている。(明治15年)

 欧洲各国の「帝国主義」で植民地を世界につくっていった歴史があるが、今はその反省の時代に入った氣がする。

 国連加入50周年記念式典がおこなわれたが、その前のサンフランシスコでアメリカの応援で国際関係がすこし良くなったが、ソ連などはまだ日本を認めていなかった。

 日米安保にサインをしたのは吉田首相だけと言われているが、吉田さんは責任を一人で背負う覚悟であったのであろう。それが「外交」というものかと思う。

 歴史の解説をみると、近くは米ソの対立はよく分かるし、ソ連が崩壊して「CIS」(独立国家共同体)になり、アメリカが一人勝ちとなり、強力になると、国連ではなく、単独行動をとることが、今批判されてるかに思える。

 国連のアナン事務総長の最後の記者会見では「国連の立場」を述べたと思われる。

 国どうしから、宗教間、さらに宗派間、武装集団など、考え方の違う人々、あるいは人の間に、「殺戮」のたえない世の中は、どうのように変わって行くのであろうか。

 タイム誌が選んだ「今年の人」(Person of the year)は「You.」であったと報道された。その意味は何であろうかと思う。最後はある人・個人がどう思うかによるのではないかと考える。その人が何を考え、行動するかと。

 まさに「雑感」であるがこのへんで、失礼 よいお年をお迎えください。(20061224)

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