記憶にのこる言葉・文章など(その2)

 

その4

 

 黒石から十和田湖へ向かう102号線を中野の紅葉で有名な角から394号線に曲がってしばらく行くと、小高い黒森山が見えてくる。そこに浄仙寺入り口のバス停があり、ちょっと登ったところに「黒森山浄仙寺」がある。

 青森県の観光案内にのっていないのが不思議だが、Googleで検索したら、秋の紅葉やあやめの立派な写真が見られた。

 この浄仙寺は、文政7年(1824年)に開山、森に囲まれた静かな境内は泉水とあやめの名所で森の中に青森の生んだ郷土の文人の文学碑があって、その中の一つにあった鳴海要吉の句が記憶にあるのである。昭和37年6月建立とあった。

 

 「いのちあって迷わぬものはどこにある あれあのとおり雲さえまよう」と。

 

 何故この句が記憶にあるのかは今思い出せないが、人の心を読んだ句として印象をもったことだけを思い出すのである。

 

 この浄仙寺から黒森山への道は車一台ようやく通れるような登山道だが、車を持ち始めたころ、こわさもしらず車で登ったことがあった。それはそれは眺めの良い山であった。なにしろ無人の「通信中継連絡塔」が立っていて、南から北への連絡には最も適した場所であったのであろう。(20061215) 

その5

大鰐のスキ−場には数々の思い出があるが、町のいたるところに増田義男先生(俳号手古奈)の句がかざられている。そに中の一つ

 「春風の 心を以て 心とす」

 明治30年生まれ、東京帝国大学医学部を大正7年に卒業され、大鰐町で開業されていた方である。(20061215)

 その6

 中曽根康弘さんのことを書いておこうと思う。

 といっても直接お会いしたことはないし、新聞紙上などで存知あげているだけにすぎないのだけれど、何となく氣になる存在であった人である。

 1918年(大正7年)生まれというから、私より3歳年上だが、終戦時海軍主計少佐で内務省を21年に退職,22年初当選とあるから根っからの政治家の道を歩んだ方と伺われる。

 第2次岸改造内閣の科学技術庁長官として入閣している。私が科学技術庁の資源調査会専門委員に任命されたのが昭和38年で、「コ−ルドチェ−ン」の勧告に参加したときとかさなるのでそのころからではなかったか。

 「青年将校」といわれたり、「不沈戦艦」とかいう言葉をきくと、海軍にいた前歴が関係しているなと思っていたことを思い出す。

 「ロン・ヤス」の関係は、日本が経済的に上昇期にあり、サミットの会議が開かれるときに、何時も「列」の中央に居るように心がけているうやに伺われた印象をもっていた。 

 「風見鶏」といわれたのが「政治姿勢」であったのであろうけれど、「功名が辻」の中に生き抜いてきた政治家であたのであろう。

 平成8年には「比例区の終身一位」を自民党から約束され、民間としては最高位の「大勲位菊花大綬章」(平成9年)まで受賞して引退するのかと思っていた。

 平成15年小泉純一郎首相から定年制導入のための引退を要請されたとき、いった言葉が記憶に残った。「政治的テロ!?」だと。「自民党は約束をやぶる党なのかと思われたか」その意味ははかりかねるが、「終身第一位」などの約束そのものがおかしいのではないかと考えるのが私の立場である。

 その後憲法改正問題に取り組んでおられたようだが、「多分ご自分で書いたと思われる前文」が若い人たちにばっさり切り落とされたとテレビにあった。

 80歳になったときのお祝いの席での挨拶の言葉が紙上(10-5-28)につたえられていた。

 「国民のために奉仕したい」

 が私のノ−トに書き留めた一言であった。(20061216)

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