「FIFA」・Part2(オタク老人のひとりごと29)

 

 サッカ−のワ−ルドカップはイタリヤの優勝で終わった。

 フランスとの決勝戦の終わり近く、「ジダン」に「レッドカ−ド」が示される前に、彼のとった「頭づき」の行動が、TVの画面に繰り返し放映され、論議がつづいている。

 それに対して「FIFA」は「可能なかぎり・・・」真相は何かを明らかにすると報道された。この問題についての「オタク老人のひとりごと29」を書いて置こうと思った。

 BBCは読話術によって、その事件のおこる前に「何を喋ったか」にふれていた。

 その前の報道や解説は、フランスはフランスなりに、イタリヤはイタリヤなりに、それぞれの「国」なりの大統領の歓迎の風景が国民の喜ぶ顔とともに放映されている。極めて「政治的な」取り扱いである。

 「レッドカ−ド」が示された「ジダン」がビッチから引き揚げたあと、準優勝のメタルが選手に授与された時には顔を見せなかった。

 「MVP」として「ジダン」が選ばれたのも意外の感があったが、投票は「ハ−フタイム中」とあってそれはそれとして納得されたように見える。

 つい「手が出てしまって」というのは、われわれ平凡人の場合にはというのであろうが、さすが「ジダン」はサッカ−の選手だけあって、「頭」がでたのであろう。

 かたを並べて歩いたあと、すう歩先をあるいていたのに、振り返って「頭づき」をした行動は「異常?!」である。いわゆる「キレタ」状態であったのであろう。

 そのとき監督は見ていなかったといい、審判はみていたのであろう。その行為に「赤」を示した。その前の「言葉」は何であったかは分からないが、それは審判には問題ではないようである。サッカ−の規則はそうなっているのであろう。

 「わざと」相手に反則をさそう「行為」は審判によって、「フェヤ−プレ−」でないと判定される。準決勝での日本人の審判員は負けたチ−ムの監督から賞賛されたニュ−スがあった。

 選手が子供達の手を引いて出場してくるのは「子ども達にみてもらってもよいフェヤ−プレ−」をすることを示す演出であると解説があった記憶がある。

 相手に「ヤジ」を飛ばすのは許されるのであろう。 相手の言葉に「うっかり乗せられて」行動をおこしてしまってはいけないのであろう。それにひっかからないように心理的に訓練しなくてはならないという解説もあった。

 野球の場合、「審判」に異義をいう場合「行動」ではなく、「ことば」で「退場」を命じられる場合があった記憶がある。

 「言論」の自由はどこまでゆるされるのかと思う。(20060712)

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