弔詞

 

 小野定男先生 

 先生と同窓の後輩の一人として また先生に大変お世話になった者の一人として お別れの言葉を申し上げたいと思います

 この津軽は 歴史的にみて 福沢諭吉先生が創られた慶應義塾とは深い縁があると思われますが 小野先生も独協中学から慶應義塾大学医学部へ進まれました 昭和7年医学部卒業後 生理学教室の助手になられました

 慶應義塾大学医学部の生理学教室は 「神経の不減衰伝導学説」を提唱された加藤元一先生にひきいられ 天下の秀才を集めた教室で われわれ学生にとってはあこがれの教室でした 

 そして単一の神経繊維を一本とりだして その学説を証明することができたということで 昭和10年 ソ連のレニングラ−ドとモスクワで開催された第15回万国生理学会で パブロフ会長からの招待で その実験を供覧するということになりました

 小野定男先生の自慢話は その実験に供される日本の「がま」と「食用蛙」170匹を 特別仕立ての列車で 加藤先生と門下生6名とがシベリヤを殿様旅行され 学会で実験供覧に成功し 世界の注目をあびたエピソ−ドであったと思います

 この弘前にもどられたあとも 加藤先生が亡くなるまで先生のお好きであったお酒を−−銘柄がきまっていたとお聞きしていましたが づう−と送り続けておられたことを思い出します

 先生は生理学のあと内科学を学ばれ 昭和14年に父上の手伝いのために小野病院の副院長でもどられたのですが 舟水清氏の「ここに人ありき」に書かれた小野家の「医は仁術」の伝統を引き継がれたと思います 今でこそごく普通にいわれるようになった「地域保健」そして「学校保健」の実践にはげまれました 

 この弘前には当時 鳴海康仲先生・石郷岡正男先生初め熱心な先生がおられ その方々とご一緒に 小野先生の得意な結核対策を中心に活躍されました

 先生が「保健文化賞」を初め数々の表彰を受けられたのは 当然なこととはいえ 正にこの津軽にはなくてはならぬ医師として 活躍されてきたと思います

 私が弘前に参りました昭和29年から今日まで ほんとうにお世話になり 数々のことをおそわってきたと思います

 昭和40年第35回日本衛生学会総会をこの弘前で主催したときも「津軽の医学と文化」の講演の中で小野定男先生には「伊東重(しげる)先生と養生会」のお話をして戴だきました

 東門会の早起き会の話もありました 

 いつでしたか東大の公衆衛生の勝沼教授がこられて先生にご挨拶されたいというので ちょっと朝早かったのですが 先生は早起き会に公園へ出かけておられるからご迷惑にはならないだろうと吉野町のお宅へ伺ったら 小野先生が早起き会からもどられたあと また床に入られてお休みになっておられたということで 先生の真面目な一面を拝見したようで感心したことがありました

 あれやこれや40年の思い出はつきません

 小野定男先生としては「百歳現役」の目標を達成できなくて残念だったといわれるかもしれませんが 津軽の医師としてわれわれの手本になるような人生を送られたと思います

 お子さんたちもりっぱにあとを嗣がれておられますし われわれ後輩にはもっとしかりやれと言われているように思われてなりません

 ここに数々とお教え お世話いだいたことに 厚く感謝をし お別かれの言葉としたいと思います さようなら

          平成6年10月13日 お通夜の日に

                         佐々木直亮 

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