弔詞

 

 福士 襄(しよう)君

 私が君のご霊前に弔詞を申しあげようとは 全く順序が逆だと思います

 昨年の九月でしたか 元気で学会に飛び回っていた君に 定期健康診断の結果からドクタ−ストップがかかって 検査の為に入院されたと聞きましたしたときは 本当にびっくりし 驚きました 医学的常識からいって その予後に気になることがあったからでした

 でも退院されたあとの君は 何ごともなかったかのように 元気にふるまっていたと思います

 「いや−全国で何例かの難病だということでした」 

とあっけらかんという君 

 そして快気祝いを頂戴し 退院祝いの会食をしたことが思い出されます

 いま世間でいう「病状の告知」があったものか どうか

 直接には聞く機会はありませんでしたが ご家族のお話によると ある時期「告知」があったとお聞きしました

 でもご本人はそれに充分に戦っていけるだけの気持ちがあったのではないでしうか

 それが思ったより早くこんな日がやってきようとは ご本人も 誰も考えていなかったのではないでしょうか 残念でした

 いま思うと 今年の二月二十六日の退官記念講演会 そしてつづいて行われた祝賀会は 福士襄先生にとって 人生最高の日ではなかったかと思います

 先生が退官記念誌に書かれたこと あの蝶ネクタイで 大勢の教え子たちに囲まれた姿 記念の写真など もうすべては良い思い出になってしまいました あの時お礼の数々を申し上げたのですが また改めて 津軽に生まれ津軽に貢献された数々の先生のご功績に対して お礼を申し上げたいと思います

 

 停年退官のあと 奥様とふたりで ゆっくりと旅行でもされるのかと思っておりましたのに 東北女子短大の教授として 忙しい忙しいと言われながら 教育にたずさわっておられる姿をみて 父母ゆずり 祖父ゆずりの教育者としての「血筋」のしからしむることかと思ったりしていました

 頼まれたらいやとは言わない そしてそれをりっぱにやりとげる

「人生意気に感じ」 君にしか出来ない人生を歩まれたのでしょう

 

 この九月三日に予定されている「東北学校保健学会」の 会長としての仕事も 気にかかることであったと思います

 亡くなる前日にも そのことになると 目を大きくかがやかせて そのまとめを息子さんに書き取らせていたと伺いました

 そして「あと一行書きたいのだけれど」と言われたとのことですが それは何であったのでしょうか 最後まで我々に宿題をくださったのでしょうか

 ご自分の病気のことは 「薬学の専門家」として われわれ医学者への宿題として示されたのでしょうか

 ここにお集まりの方々は それぞれに 先生が教育に熱心であったお姿 また笑顔を思いだされていることと思います

 

 本当にお世話になりました 有難うございました

 安らかにお休み下さい さようなら

 

   平成六年八月十七日

                     ささき なおすけ

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