武田壤寿先生のこと

 

 「弘前へきてまもなく、夫婦で初めて、佐々木先生のお宅(若党町アパ−ト)を訪問した時に、二人そろって写してもらったものが結婚式をあげなかった二人のその年の唯一つの記念写真となった。」

 と弘前大学医学部衛生学教室25年誌に武田先生は書いているが、昭和29年のこの年からわれわれ夫婦とも今にもつづく長い付き合いになった。

 50年に1回といわれた「洞爺丸台風」のあった昭和29年という年に私達夫婦も生まれたばかりの長男をつれて東京から弘前へ赴任したのだが、その同じ年に武田夫妻も手に手をとりあって弘前にきたのだ。

 医学部の衛生学教室の初代の教授の高橋英次先生は「助教授になるにふさわしい人を」ということで慶応義塾大学医学部の原島進先生へ依頼されたようであった。また高橋先生の先生にあたる東北大学医学部衛生学の近藤正二先生からは助手をいうことで、当時大学院の特別研究生として衛生学を専攻していた武田先生を推薦されたことと思われる。

 

 人と人の出会いの運命は不思議なものと言わなければならない。

 創設期の何もない教室づくりに高橋先生は苦労されたと思われるが、今南黒医師会長をしている伊藤弘先生があともう一人の助手になって、衛生学講座としてはじめて教室のスタッフがそろって研究に教育に活動を始めることができた。

 それまではまったく違った人生を歩んできた者が一緒になって仕事をするわけだったが、公募とか選挙でなったのと違って何かを期待されてその席についたという気がして仕事ができたと思う。

 だがその高橋先生が近藤先生の後任として東北大学へ転出されてしまったのだが、医学部教授会は全国公募の候補者の中から私を教授に選んだ。

 まだ公衆衛生学教室がない頃で、青森県内に唯一つの「健康」を専攻する教室としては今思うと大変なことであった。

 武田先生には助教授になってもらい、また保健所・衛生研究所勤務の傍ら衛生学教室の研修員であった福士襄先生には助手になってもらったのだが、それから10年はあっという間にすぎていった。

 私が海外研修に1年間出張することになった昭和41年、弘前大学に養護教諭養成所が設けられることになった。

 初代学校保健教授として武田先生へ佐藤熈学長・葛西文造教育学部長からのお名指しがあった。

 医学部教授としても全国どこへ出してもはずかしくない履歴の持ち主の武田先生の養成所への転出はご本人も考えたことであろう。 私も医学部の教育の分野から離れる武田先生には惜しい感がしたのでそれなりに意見は述べた。

 しかし武田先生は期待されたことに対するこたえ、またこの仕事は自分しかできないとの信念で行動されたと思われる。

 私にとっては学校保健についてすっかりまかせられる方ができたことは嬉しく、地域保健へと力をそそぐことができた。

 武田先生は皆の期待にこたえてくれたと思う。養成所が閉校になる際にも、教育学部教授として満票で推薦されたと聞いた。

  (武田壤寿教授退官記念誌,9-10, 1992.5.28.)

目次へもどる ホ−ムペ−ジへもどる