「山田信男先生の退任を慰労する会」でのお祝の言葉

 

 「村民の健康を守り続けて四十四年」

 この間先生が挨拶状に書かれていたように「喜びも悲しみも幾歳月」であったと思いますが、お元気でこの日を迎えられ、また本日は相馬村第1号の名誉村民の称号を受けられたこと本当におめでとうございました。来賓の方々を代表してということですが一言お祝いの言葉を申し上げたいと思います。

 先生は皆さんもご存じのように、大変真面目で、ひかえ目の先生であります。

 いつでしたか、医者にも色々あるという話から、薮医者というのもあるということになりましたが、先生はその次に「どで医者」というのがあって、自分はそれだと謙遜されました。(薮は見通せるが、どてはそうはいかぬ)

 その時の先生の話をまとめて「診療所長、当直、小使、どての医者」

とメモしましたが、診療所でのご苦労がしのばれました。

 今日来ておられる佐藤雄治先生、坂本登治先生のご紹介でいそがしい診療の中私が以前勤めておりました弘前大学医学部の衛生学教室へ勉強に来られることになり、先生を存じ上げることになりました。診療所でできる、そして村民のためになる仕事をされたらどうかと考えました。

 「けんそんにおよぶ仕事のすばらしさ」

 先生は大変謙遜されておられますが、その業績は大したもので、国内の専門学会にもまた国際学会にも先生の名前とともに発表させて戴きました。

 先日東奥日報にも大きく報道され、ご存じの方もあるかと思いますが、私の書いた「りんごと健康」が出版されたのですが、この本にも沢山先生の論文を引用させて戴きました。 

 「世界中あるく楽しみは生まれつき」で見聞・話題は多く、世界各地の写真や8ミリの記録を持っておられます。

 スポ−ツ好きという話がでましたが「サッカ−」では弘前高校での創始者で大先輩であるとのことです。

 「マ−ジャン」は年期がはいっていて、とても足元にも及びませんが、いつでしたか、「300であがるつもりが満貫に」ということがありました。

 麻雀をご存じの方ならすぐおわかりになることだと思いますが、ちょっと説明しますと、こういうことでした。

 「中」をポンされました。明刻(みんこお)です。これはいわばオタポンであり、早くあがるという心ずもりではなかったと思います。

 とろが、すぐに「中」をツモッ(自摸)て、カン(明槓)になりました。リンシャンパイ(嶺上牌)をとってきました。そしてその牌でアガリ(和り牌)でした。すなわちリンシャンカイホワ(嶺上開花)でさらに一翻つきました。

 ところが「ドラ牌」に「発」がでてきました。それでさらに四翻がつき、結局ハネ満貫になりました。

 これだから麻雀はやめられない、まるでツイタ人の人生ですね、と話したわけですが、今の先生のことをさしているように思えてなりません。

 戦争のあと昭和二十二年に鳴海康仲先生の紹介で相馬村の国保診療所長になられて以来、いま「無医村解消の先駆者として」ここにお元気で退職される山田先生は「満貫」をツモッタような人生ではなかったでしょうか。

 いままでのご苦労に感謝し、一言お祝いの言葉と致します。

(平成3年3月30日 相馬村「長慶閣」にて)(弘前市医師会報,217, 74, 1991.6.15)

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