「向井千秋さん」を負かした女

 

 「向井千秋さん」といえば、日本初の女性宇宙飛行士ということで知らない人がいないぐらい有名になったのだが、この頑張り屋の女(ひと)を負かしたことのある女医さんがわが弘前市医師会員の中にいることを紹介しようというのがこの文の内容である。

 向井千秋さんが慶應義塾大学医学部を卒業した女医さんで、心臓外科を専攻し、あの石原裕次郎さんが慶應病院に入院して治療を受けたときのスタッフの一人であったことは、TVに週刊誌によく紹介された。

 昭和58年12月に「宇宙飛行士募集」の新聞広告をみて「自分で地球を見てみたい」という夢をもって応募・選抜されるのだが、昭和61年のチャレンジャ−の爆発事故のあとの人生の選択はドラマの一つのテ−マでもある。その時の彼女の選択は「しかし人間はいつかは死ぬものですから」であったと伝えられている。

 結婚も人生の選択の一つであったのであろう。慶應病理の「向井万起男さん」と結婚され、館林の「内藤」さんから「向井」さんになられた。 弟の内藤さんのインタ−ビュ−がTVに放映された。

 「姉は学生時代スキ−をやっていて、絶対勝つんだ、連勝するんだと自己暗示をかけていて、優勝したことがあるんです」

 「だから絶対地球を見るんだ」といっていましたと。

 

 学生時代スキ−をやっていたという言葉から昔のことを思い出した。「東医体」のスキ−で彼女をみた事を。

 照井先生のあと弘前大学医学部のスキ−部長になってから「東医体」のスキ−競技にはよくいかせてもらった。

 照井先生の息子さんが東北大学に入って医学部のスキ−選手として出場してきたとき「どちらを応援しているの」と言われたことがあったが、私も慶應の選手が気になるものだった。とくに女子選手が滑ってくると。

 慶應の「芦田りら」選手が有名であった。

 昭和46年3月の第13回(八方尾根)の女子大回転と昭和47年3月の第14回(妙高高原赤倉)の女子回転・大回転につづいて優勝した。

 そのあとにつづく学年の「内藤千秋さん」も「絶対勝つんだ」と思ったことであろう。

 昭和49年3月の第16回(栂池高原)では女子回転で3位、大回転で2位であった。昭和50年3月の第17回(猪苗代)で女子アルペンで回転・大回転ともに優勝した。昭和51年3月の第18回(富良野)では回転で優勝した。あと一つ残るは大回転であったが、そこで弘前大学医学部の「加賀英子さん」が優勝をさらったのである。彼女は3位であった。

 ちなみに「加賀英子さん」の記録をみると、女子アルペン回転・大回転で昭和49年35位・23位、昭和50年3位・ 2位、そして昭和50年回転で途中棄権のあと大回転で優勝をかち取ったのである。

昭和50年猪苗代にて   昭和51年富良野にて

 「北の峰 吹雪の中に 花が咲き

 

 卒業後の進路はそれぞれであった。

「内藤千秋さん」は宇宙飛行士として夢にみた地球をみた。14日17時間55分という女性宇宙滞在の思わぬ世界記録をもたらした。

 「加賀英子さん」はひと足お先にというように部員の皆の手にかつがれて宙を舞った。

 スキ−が取り持つ縁か「高橋修一さん」と結婚され、「衛生の旅」に書いた「ダブル・インカム・フォア−・キッヅ」(現在はお子さんは五人だとか)で、最近開業された。

 「向井千秋さん」がケネデイ宇宙センタ−の滑走路に無事帰還されたTVをみてこの文を書いた。(6-7-24)

 (弘前市医師会報、236, 55-56, 平成6.8.15.)

向井さんへ医師会報を送ったら 返事がきた

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