シャボン玉 飛ばそ

 

 「野口雨情の世界を歌う」森進一というテレビ番組が放映された。

 そしてイントロは「シャボン玉」であった。

 

  シャボン玉 飛んだ

  屋根まで飛んだ

  屋根まで飛んで

  こはれて消えた

 

 大正四年高塩ひろと離婚。

 大正七年秋、中里つると結婚、新しい人生を歩みだす。

 このあとの作品に「船頭小唄」(原題「枯れすすき)があり、中山晋平を訪ねて作曲を依頼している。

 大正十年になって「船頭小唄」の楽譜が山野楽器店より発行された。

 「どうせ二人は この世では」とあるとこの世をはかなむ退廃的な唄にきこえるが、最後の結びは「船の船頭で 暮らそうよ」とあって人生に生きる心があると読み取れる。

 

 この前後に「十五夜お月さん」「七つの子」「青い眼の人形」が発表されている。

 

 大正十一年野口雨情四十一歳のとき「シャボン玉」を「金の塔」に発表している。

 このとき野口雨情の身辺に何がおこったのか。

 お子さんを亡くしていると森光子さんのナレ−ションにあった。

 

 この話を聞いたとき「シャボン玉」の唄はまさに当時の「乳児死亡」の問題を反映しており、今度講義のときに使おうと思った。

 大正十年は私の生まれた年であり、年間数万の子ども達が死んでいた時代であった。

 正確には当時の人口動態統計によれば、大正九年(1920年)1歳未満の乳児の死亡実数は全国で335613であり、出生千対の乳児死亡率は165.7である。ちなみにそれから七十年たった平成二年(1990年)の乳児死亡の実数は5616であり、乳児死亡率は4.6である。

 

 シャボン玉には子どもを亡くした親の気持ちが唄われていると思われた。そのお子さんは「丸い眼をした いい子だよ」であったのか。

 そして元気で育ってほしかった願いが込められている。

 

 シャボン玉 消えた 

 飛ばずに消えた

 生れて すぐに

 こはれて消えた

 

 風 風 吹くな

 シャボン玉 飛ばそ                      

 (弘前市医師会報,228, 51, 平成5.4.15)

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