福田邦三先生の思い出

 

 私の「衛生の旅」を先生にお送りしたとき、大正大地震で地面がゆれたのが、兄と一緒に外で遊んでいた私の、この世での最初の記憶にのこるできごとで、と書いたことが先生の目にとまったようで、次のようなお手紙を戴いた。

 「関東大震火災の時には小生大学卒後二年目でした。当時の隣の棟でありました生化学教室の地下室の薬品から火がでたのを見ながら、同教室に人影がなく、私の徒手空拳では何も出来ず、残念千万だった記憶がありありと瞼にこびりついています」と。

 私が生まれたときすでに大学を卒業されていたのだな先生はと感じたものだった。

 初めて先生にお会いしたのは、私が慶応の衛生にいて、ヘモグロビンとCOの関係を研究している時であった。文献をしらべていくとその本が東大の生理学教室にあることがわかって訪れたのだが、その時書庫の中まで案内して戴いた時のことが思い出される。

 そのいきさつの詳細は関係者が亡くなってしまった今は知る由もないのだが、慶応の関係者が民族衛生からいっせいに離れていったことがあった。

 高橋英次先生が弘前から東北大学に移られて民族衛生学会を開催される機会にまた学会に入れていただいて、それからあらためて福田先生の思想にふれる機会に恵まれた。

 あえて先生の思想という言葉をつかったのは、先生の述べられる意見・書き物に盛られた思想に引かれるものがあったからだ。

 丁度日本の全国の大学がゆれていたとき先生は学長を経験されたが、私も大学の評議員をやらされていたので、学生にどう対処したらよいでしょうかとお聞きしたことがあった。

 「学長室には正面玄関もありますが、裏口をいつも開けておかなくてはいけません」といわれた言葉が記憶にある。

 また学長などになると学問研究はもう終わりですとも云われた。

 そのあと保健の科学に短文を連載されていたが、これは正に先生の思想の結晶であろう。

 先生のお考えをつらぬいていたものは一体何であったのだろうか。どのようなご経験で考えらるようになったのであろうか。

 一般的な言葉でいえば「民主的」とでもなるかと思うのだが、公とかパブリックとかの解釈は基本的に重要なことと思われた。その一つ一つにそのよってきたるところを十分お聞き出来ない前に先生を失ってしまった。

 今世界がゆれ、変貌しつつある時代の次にくるものが何であるのか、保健はどうなるのであろうか、先生はどのように将来を考えられたのであろうか。

 弘前で民族衛生学会を開催したとき、遠路暑い中にも関わらずご出席され、会場の一番前で聞かれ、懇親会で乾杯の音頭をとって下さった。

 学会が無事終了し自宅へもどったところ、名誉会員の先生方が、今度は学会長を慰労したいと連絡があった。そして「いろいろお世話になりました」と挨拶された。その心ずかいに感謝をしたことが思い出される。

福田邦三先生(昭和47年弘前にて)

 先生をスナップした何枚かの写真に先生の顔を見ていると、そのどれもが穏やかな老人らしい良い顔であるのに驚き、また懐かしさを感ずるのである。(1.11.20.)

            (回想 福田邦三先生,117-120,平成2.10.17.杏林書院) 

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