今、健康問題とは

 

 今、あらためて健康問題は何なのかを考えてみたい。

 「一つ一つの疾病をとりあげ、その成因を探究し、未知の、全く新しい分野へと研究してゆくことは、研究者の意欲をかりたてるものであり、このような研究は必要であり、たえず先へ先へと続いてゆくものであると思うけれども、一方人々の健康そのものから考えてゆこうという考え方が国際的に論じられてきたことも確かである。衛生学者としては後者の立場にたつものと考えてはいるが・・・」と書いたことがあった。  

総ての研究はあることに対する疑問から出発するという言葉をみたことがある。

 疑問を明らかにしていこうという研究心があり、研究ができる場があたえられたとき研究は始まるが、それが未知の全く新しい分野であることが分かったときは、それこそ寝食を忘れてということになるであろう。結果はどうであろうと、その瞬間は、そんな一時を持つことは研究者だけに与えられた喜びであろう。

 これは学問が面白い面白いという人のことで、そんなことができる場が与えられ、その学問が社会的に認められれば、こんなに恵まれた人はないであろう。

 今まで学問はそんな形で進歩してきたのであろう。だからそんな研究をすることを非難はしない。また国もわれわれの税金をもっとこんな方面につかうようになってほしいとは思う。

 しかし後者の、今、健康問題はとなると、そうはいかない。 

 何が健康問題であるかを、明確にしなければならない。そしてその健康問題と考える道筋のなっとくいけるものには一段と予算を使うべきである。

 いろいろの研究が行われ、その研究報告がされるとき、よくまくらに書いてある文句がある。

 最近よくみかけるようになったものに、日本人の死因の第一位は脳血管疾患にとってかわって悪性新生物になり、第二位は心疾患であると。

 日本全国そのようになり、どの市町村でもいわれるようになった。だからこの研究をやり、また予算をとったと。沖縄は長命県であり、青森県は短命県であると。沖縄では長寿の研究に予算がつき、青森県では短命県返上に予算がつく。

 一体これらの言葉の意味するところは何なのであろうか。どのように健康問題が把握されての上のことなのか。

 前回の巻頭言に「疫学の論理」を書いた。今回のはいわばその続編であって、今の健康問題として何が把握されているのかの考えの道筋をはっきりしておかなければならないということである。

 死因の順位の一位とかいう順番、また死亡数とかいうものが、どれだけの健康問題をもつものとして把握されているかということである。人はいつかは死を迎え、なにかの病名がつく。「お客さんが多くなったから、老人医学が必要になった」だけでよいのか。

 長命県とか短命県ということは何であろうか。

 民族衛生学会でも「長寿」に関するシンポジウムが開かれたことがあった。その席に出席したのだが発言の機会を失したので、ここに書き留めておきたい。

 「長寿」とはなんと響きのよい言葉であろう。場所が沖縄であったが、わが青森県が短命県といわれるのとちがって、言葉として、標題として羨ましい限りであった。

 だが、一体「長寿」とはどのように定義され、何が問題であったのであろうか。

 ある報告者は平均寿命をもって長寿を論じ、またある報告者は長寿者率を使って論じていた。またある報告者は百歳以上の長寿者を調査して長寿を論じていた。比較対照する人のことを調べなくてその人が百歳以上生存している理由がわかるのであろうか。人が生まれてどのように死んでいったのか、何故若く死んで行くのか。そんな人のことを調べなくてよいのか。人間はいずれは死を迎える。そして日本人のほぼ大部分の人々がかなりの長生きになった現在における問題とは何なのか。

 シンポジュウムの主題の「長寿」の定義がはっきりせぬままに、時間がすぎてしまった記憶がある。だから各報告者が自分では興味をもち、それを追究した別々の報告を聞いただけで終ってしまった。

 「対がん10か年総合戦略」というのがある。一体がんに対してどのような健康問題把握があり、それに対して何をやろうとしているのであろうか。その対策にもられた項目からは、日本におけるがんについてどんな健康問題を把握し、その対策をやればこうなるという考えの道筋がわからない。 いまから30年も前ある先進国からきた講演者が、「がんで死ぬ人より、がんで生活している人が多い」とじょうだんともつかずいった一言が忘れられない。

 がんの告知についてのアンケートがとられ、討論が展開されている。この際がんの定義や自然史がどの程度理解されての上の論議なのであろうか。

 その点わが民族衛生学会の先達の近藤正二先生がわが国の脳溢血による死亡が壮年者に若く多発しているという問題を示したことや、死児をして叫ばしめた丸山博先生の研究は、健康問題を明確に示したという点において忘れてはならない。

 そして今、あらためて健康問題とは何なのかを、その考えの道筋をはっきりさせていかなければならないと思うのである。

     (民族衛生 55(6),257-258, 平成 1・11・30 巻頭言)

目次へもどる