山下廣蔵さん

 

 「山下廣蔵さんがちょと具合いが悪くなって、入院したほうがよいだろうということで今救急車で入院しました」と長男の章から電話があった。

 数年前から義父の家に同居させて戴いているその家からの電話である。

 丁度一週間前であったろうか、鹿児島の学会へ行く前山下さんへ家内とお邪魔した時、一緒にマ−ジャンをやったことを思いだした。めずらしく彼はひとりまけ、はやく床についた。

山下廣蔵さん(石神井にて 昭和56年3月)

 翌朝「このごろ朝石神井公園を散歩しているのです。ご一緒にこられませんか」と誘いをうけた時のことを思いだした。

 私は行かなかったのだが、「朝は苦にならないのです。なん十年と朝6時起きでしたから」との奥さんの一言に、ライオンに入社して以来のご苦労が偲ばれた。年の何分の一かは出張でと聞いていたから。営業で広報を担当していたし、マ−ジャンはお手のもの。私のような家庭マ−ジャンしか知らない者にとってはやれる相手ではない。それがめずらしく負けたのである。

 

 「どうやら心筋こうそくのようです」

 「意識ははっきりしていますが」

 「りんご箱がついたのでそれをはこんで」

 彼はキリスト教信者であり、それでいてビジネスの世界に一生をささげた。

 「ビジネスマンは二度爆笑する」「ビジネスはジョ−クで始まる」「たまには阿呆ンなってみなはれ」の本を常務そして商事の社長の忙しさの中に出版した。

 その本の「ふれ合いの人々」の中で、私のことを弘前のアップルロ−ドを一緒にドライブしたこととかけて彼らしく「りんご一筋」と書いていた。前に彼のことをユ−モア作家ともいえると書いたのはそんなわけである。

 ここ十年のつき合いであるが、今その本を読み返してみると、「私も元来高血圧症であり、塩分をおさえてきているが、先生とつき合いはじめてからはせっせとリンゴを食べるようになった」と書いている。そのりんごの箱をはこんだことがなにかきっかけを与えたようであった。

 「ちょっと九州へ出張して帰ったばかりらしいですよ」

 「つかれたといっていた」

 頻脈とCCUと聞くと予後は心配だ。

 

 「今日はだいぶ具合いがよくなって、食欲はないんですけど、リンゴジュ−スはおいしいって」と協子さんから電話があった。

 どうにか持ちこたえたかな。あとはリハビリだ。

 ちょうど先日伺ったとき、孫の誕生日でもあったその時のスナップ写真が出来上がってきたので、「お見舞いいたします。あとリハビリがうまくいきますようにお祈りいたします」と書いてポストにいれた。

 

 「脳梗塞の症状がでてきて」

 「右手がきかなくなって」

 「意識がなくなりました」

 「予後は悪いかもしれないな」

 それから数日あとの14日の午前3時、枕元の電話がなった。

 

 教会での葬儀告別式には沢山の方々がこられた。

 「病床から起き上がって冬近い風景を眺めておられたので、することがなくてお気の毒ですねと話しかけてたら、今まで忙しかったのでこうしているのもよいのですとのお答えであった」

 「口や手が不自由になって、左手で四角いものを紙に書いたのが、聖書でした」

 「いつも他人を喜ばせることだけを考えていて」

 「今日眼球銀行に登録してきたよ、といっていた彼。そして死後献眼されました」

 

 彼の自己笑介には次のように書いていた。

 「わたくしめ、生来駄洒落が好きで、笑わせたり笑ったり、大学も商学より笑学にいそしみました。長年セ−ルスを勤めて参りましたが、小僧の頃を忘れぬ様(さんしたこぞう)と名乗り、笑倍は商倍なりと心得て今日に至った次第であります。仕事が気楽などとは決して申せませんが、ライオン寄席では、何をかくそう、南茶亭気楽(ナンチャッテイキラク)と申します」と。

 来年の年賀状にはどんなユ−モアのアイデアがあったのであろうか。

 

 最後にとったスナップをよくみたら、彼の姿が孫に隠れて写っていなかった。「ひとあしさきにおかくれになった」とでも気が付いて彼の心をいためたのではなかったか。

 

 16日の朝の新聞の死亡欄に一斉に記事がでていた。教会名と所番地そして自宅の所番地。

 ところがである。

 「まるで映画のようだ」と長男がつぶやいたようなことが告別式で留守した家におこったのである。

 空き巣にねらわれたのである。

 告別式の時間はわかっている。その時間帯は専門家にとっては大事な情報ということになろう。

 そのことを十分考えておかなかった方が悪かったのだろう。

 前夜式での香典は幸い無事であったが、家の中を荒されたことは気分が悪い。

 「神様は一番大事なものをもっていかれたのですから、何をとられても惜しくはありません」とは気丈夫な奥さんの一言であった。(1・12・20)

目次へもどる