明日は参議院の選挙日である。

 論争のテーマの一つに消費税がある。

 全面廃止が叫ばれ、自民党は見直し論を掲げている。

 家庭の主婦は主として反対のようである。だから明日の選挙の結果はみえている。毎日一円でも安いところをちらしでさがして買物をしているのに、いざ支払いの時に、今まで長年経験しなかった余分と感ずることをしているのだから。

 今朝の毎日新聞をみていたら経済評論家という方が、”痛税感”という言葉を使って、これを大事にしようという題でのべていた。

 新聞の記事、あるいは意見のなかに、そもそも”税”とはという解説が殆ど見られないのはどうしたものか。その道の専門家からみて、日本の経済の実状、そして将来への問題点などについて、ある程度分かっていることがあるのではないかと推察するのだが。

 多分頭のいい大蔵官僚の理論にはその道筋があるのではないかと想像される。いまの大臣はその道の専門家のようであり、先日の強行採決の判断をしたところをみると、そのように感ぜれられる。

 専門家はちゃんと”税”のことを説明すべきである。そもそも”税”とは。世界を見渡すと税の無い国もあるようだが、この民主主義を標榜している日本という国に税が必要なわけを。それも子供の教育の中から。

 われわれの育った時代にはそのような教育はなかった。おそらく日本人の大部分はいまの日本に税が必要なわけを知らないのではないか。税はとられるもの。おかみのすることにはさからえぬ。だから民衆は知恵を働かして生きてきたのではないか。

 記事のなかに「日本人は納税する時は文句をいうが、取られた後の使い道を監視する姿勢は甘かった。それが政治家の利益誘導型配分を許す土壌になっていた」とあったがそうであろう。

 税のことを”TAX ”というが、納税者(Tax-payer) としての気持ちは日本人には育っていなかったといえる。その意味からいえば消費税が実施されたことは、ひろい意味の日本人に対する教育になるものと思われる。

 新聞の記事では、外税だから毎日それを痛感するが、内税では税を納めていることを忘れてしまうのではないかという主旨のように読み取られた。

 病院の弘仁会の理事会で、消費税実施以後、食堂や売店の品物の価格をどうつけたものか、話題になったことがあった。結果的にはおちつく処に落ち着いたが。全国で同じことがあれこれ論議されたことだろう。

 実際に税を納めるのは消費者ではなく業者で、これを納税業者といっているが、非納税業者もある。税を消費者から預かってもその人が納めるか納めないか分からない。もっとも小売業者にとっては仕入れの時にはすで3%のうちの幾ばくかは”取られて”いるからというし、その言葉がその地方の方言かどうかはわからいが、”ねこばば”するとか話題になった。大蔵ではその割合を何割かにすでに見積っているという。

 またこの3%が”永久に”つづくとかどうとか話題になった。先日いったニュ−ヨ−クなみに上がっていくのであろうか。日本は今後どうなっていくのであろうか。

 

 Tax という言葉をみると、いつも思い出すことがある。

 それは1950年のサピルスタインが、飲料水を食塩水にかえて高血圧を実験的にはじめてつくることに成功した論文のなかで、”腎臓の調節機能に負担(tax)になるに十分な食塩水を与えて”とTAXという言葉を使っていたことだ。

 ローマの時代から税は人民を苦しめてきた。日本の戸籍が創られたことにもその背景がある。しかし戦後の日本の繁栄のあと、いまの日本で痛税感はあるものの、重税感の実感はあるのであろうか。成田での免税額が20万から30万へと検討されている。そして夏休みに入って成田は込み始めたという。大学でも休みに入って、海外旅行にゆく学生や先生方もいる。

 先日ゴルフ業者のコンペがあったら、物品税がさがったので、お買いやすくなりましたので宜しくといっていた。

 さて明日の日曜日はどうしたものか。ゴルフへいって利用税を700円おさめてくるか。昨年まではたしか1100円であった。(1・7・22)

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