時差ぼけ

 

 ようやく時差ぼけがなおったようだ。

 アメリカから帰国後頭のほうはすぐ適応して、翌日から講義や仕事をしたのだけれど、こんどわかったことは、腸の機能はもとにもどるのに十日はかかるようだ。朝おきてすぐ便通があるという私なりのパターンにもどるのに、それなりの時間がかかったからだ。

 

 6月18日から1週間、ワシントンDCでの第2回国際予防心臓病学会に出席してきた。

 3年前の世界心臓会議の時と同じように、時差を調節するために3日間サンフランシスコにとまることにした。それも同じヒルトンに。

 ケ−ブルカ−にのり、フィシャ−マンズワ−フでシ−フッドを賞味し、とここまでは同じであったが、トップレスショウや、25セントのずばりSEXのヴィデオは今回は見る気がなかった。眠気がさきであった。

 

 20年前、正確には1965年9月ミネソタ大学へ行く途中でロスからこのサンフランシスコによったのがはじめての経験であった。

 文献交換で知り合ったドクタ−達に会い、車で市内を案内され、テレグラフヒルにのぼり、日本庭園を案内され、昼飯をたべ、そのとき彼らがマルチイニをのんでいたことが思い出された。

 チャイナタウンや花壇のある曲がりくねった坂道など、昔どおりであった。

 ちょうどバ−クレイにきておられた山本幹夫先生と一緒にたべた小えびのカクテルの味が忘れられなくて、No 9 Fishermen's Grotto という店にいってみたのだ。

 それが前とおなじ店の作りで、椅子も同じ、メニュウもマッチもドレシングのことを書いたパンフも20年前と同じであった。

 こんなところが、アメリカ人にもうけて、ケ−ブルカ−とともに、なんとロマンチックな町と云われる由縁であろう。

 ケ−ブルカ−の切符の自動販売器は、その機構の考え方に日米の違いを感じた。

 日本ではお金を入れればそれで買える範囲にランプがつく。そして行き先のボタンを選ぶのであるが。

 まずなにを買うのか決めなければならない。それが先である。

 成人、青年、老人、身障者、そして一日券かと。それを頭の中できめてボタンをおす。その金額が表示される。2ドルと1ドル、1ドル50セントづつであったか、そして一日券は6ドルであった。それに相当するお金を入れれば切符がでてくる仕組みであった。

 車体にぶらさがりながら、わ−わ−いいながら、切符をみせるだけである。1回券には買った時間が印刷されてあり、1日券には ALL DAY とあり、24:00とあった。

 もっとも紙幣は1ドルと5ドルだけしか受け付けてくれなくて、おまけに表を上にし、ワシントンの顔の方向が指定されていた。この点今は日本の方がすすんでいる。

 でも身障者や老人の扱いはこちらがすすんでいる。65歳以上をシニヤ−扱いとしていたが、日本人は一般に若く見られるし、文句をいわれても面倒だし、税金もおさめていないので、普通のアダルトの切符でのった。

 昼の観光バスにのってみたが、昔と同じであった。でも1Mといって、マルチのことか、各国ごとの外国語の車もあって、テープではあったが、日本語のチャンネルもあった。日本語のほうが英語よりやはり頭にはいる情報量が格段に多いことを実感した。日本語はほかの言葉とくらべてみると同じ内容と聞き取れたが、短い時間内で説明していた。

 アメリカのどの都市でも同じ問題をかかえているようであるが、20年たって都市の再開発が進行中である。いわゆるダウンタウンは大きな新しいビル街になるか、ヒストリカルな町になるか、そして人々は郊外へ住むようになる。

 かつてゴ−ルドラッシュで出来た街、美しいゴ−ルデンゲ−トブリッヂのある街ではあるが、いまや金融と観光の街としてサンフランシスコは生まれ変わろうとしていると、テープは説明していた。

 海岸にあった海洋博物館にいったら戦後太平洋ひとりぽっちでこのシスコに渡ってきた堀江謙一青年のマ−メイド号がかざられているのをみることができた。そのヨットの小ささは驚きであった。

 そんな時があったのだ。それもちょっと前の時間のなかで。

 今となると日本の瀬戸内海大橋にくらべると見劣りするゴ−ルデンゲ−トブリッヂではあるが、この橋が1937年に完成したことを思わないわけにはいかない。いまから30年も前にこの橋を完成した国・人・技術を思わないわけにいかない。

 女子大学での講義の時、質問に正解した人にはおみやげを買ってきてあげましょうといった約束に、”GENUINE GOLDEN GATE BRIDGE CABLE ”という細いワイヤ−を買ってきた。正真なという言葉につられたが、75セントも手軽な値段であった。 (1・7・11)

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