年の暮れ

 

 朝新聞を広げたら第1面は内閣改造のニュ−スであったが、第3面に捨子に名前が付けられたという写真入りの記事が掲載されていた。

 この種の記事を時々地方の新聞で見かけ、そのつど胸が痛むのだが、今朝はこのことを書き留めて置きたい。

 

 大都会のロッカ−置き去り事件と違って、小さい命が救われたというのはこちらも救われた思いがするが、なぜこの種の事件を大きくとりあげ、その上名前まで報道するのかという点である。

 大学病院前とか市民病院前とかデパ−トとか、人目につき、この子を誰かが育ててくれることを願っていることは解る。その子を生んだ人がなぜその様なことをしたのか、そんなことがおこらないためになにをしたらよいかはここでは触れない。

 その子の将来、その子の人権はどう尊重されているのかという点である。

 

 たいていこの様な場合は自治体の長が名付け親になる。そして今回も子の将来の幸福を祈って名前がつけられた、と記事では命名式などのことも記載されていた。

 その子もいずれは大人になり、自分の名前を、自分の出生のことを知ることだろう。そのときになってその人がどのように感ずるだろうか。その記事がその人にとっての幸福につながることになるのか。

 

 大きく報道されれば捨子をした、あるいはせざるをえなっかた人はこの記事をみてひと知れず安心するだろうか、また子を引き取りに帰ってくることになるのであろうか。

 なにか子の幸福がにしきの御旗で、その実市長とかいう人のという気がしないわけではない。

 日本には人権の考えはよく理解されていないのではないか。

 

 衛生学の講義の中で‘プライバシイ’に触れることがあるのだが、いつもそれにあたる日本語がみあたらないと説明する。わが国にはそれを育てる風土がなかったのか。

 

 先日ロンドンの郊外で起きたPANAMの事故のあとの報道が日本で起こった事故のあとの報道と際だった差があったことに、またあらためて国の差を思い知らされた。

 衛星放送を見ていたら事故にあった搭乗者は誰誰とは一言も言わないし、航空会社も発表しないのだ。ただ本人の関係者には直ちに連絡したとはいっていたが。そこが違うと思う。

 

 先日医学部の外科教室から、肝臓移植に関して医学倫理委員会に書面の提出があったと報道された。医学の進歩を担う医療担当者からの申し出であろう。

 「先生あのことには問題がありますよ。医療のことについてはちょっとうるさいのです。医者ではないけれど。医者の論理は納得いきません」とふっかけてきた人がいた。忘年会の二次会で鍛冶町でのんでいるときだったが、こちらが医師と解っての話である。

 それも身近の大学に勤めている人で、奥さんが看護婦という人であった。彼女は夜勤であろうか。とうの主人はカウンタ−にいた。

 皆身近で名前をいえば知っている人であった。弘前はせまいな。

 そんな社会に生まれた子が将来どう生きていくのかと思ったのである。年の暮れの一時であった。

 人権と医の倫理を論ずるには紙面が足りない。またの日に譲ろう。(63・12・28)

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