新聞報道のおそろしさ

 

 国鉄がJRになって初めての大きな交通事故が報道された。

 12月6日の東京・東中野駅構内での追突事故である。

 乗客百人が負傷し,運転手を含め2人が死亡した。

 ATS装備・運転ミスの疑い、ラジオつけっぱなし、と大きく報道された。

 以前にも事故があったという魔のカ−ブでの事故のようだが、多くの読者はこれだけの大きな見出しだけで、その事故の様子を頭に浮かべてしまうのではないだろうか。

 「運転手がラジオを聞きながら」−−「なんだ、大事な運転をしている時に」と考えるのは当然であろう。

 それが事実なら運転手が責められべきか、その管理体制が問題になろう。

 はたしてそれが事実であったのであろうか。

 

 8日の参院運輸委員会で「コ−ドはラジオに巻き付けてあり、ラジオを聴きながら運転していた可能性は非常に少ない」との調査結果があったことは、新聞のかたすみに小さく報道されていた。

 

 この報道の実態はわれわれに色々のことを教えてくれるようだ。

 自分が事件の中心にあるようなときは、そのことがよくわかるような気がする。

 むしろ一つの事件・事実が新聞によってどのように報道されているかのほうが興味がある。事実は一つなのだから。

 

 新聞の報道について私には忘れられない話がある。

 それはまだTVのなかった頃、ラジオで座談会の司会を毎週やっていたことがあった。相手をかえて。

 ある日の相手は若い新聞記者諸君であった。

 自由にいろんなことを喋ってくれたのだが、つぎの言葉が記憶にあるのだ。

 「原稿を一生懸命書いてデスクへ持っていくと、その取材もしない上役がさ−と見出しを書いてしまう」と。

 すべてそんなものだとは思いたくないし、色々経験のある方はそれなりに纏めは優れているものだとは思う。

 文学的なものならそれはその人の特徴がでてよいものだと思う。

政治的なものならその新聞として主義主張があってよいものだと思う。

 しかし事件とか、それが裁判にかかっているときとか、その報道は問題である。

 裁判の報道など、最終の判決が出てからでよいのではないかと思うことがある。

 自然科学の研究結果などは、まさに正確さを要すると思う。大新聞社ではそのために専門家をおいているという話を聞いたことがある。

 今度の事件報道で運転手の人権はどうなっているのだろうとも思う。

 「いやー新聞も、売らんかなだよ」と大先輩がいっていた言葉も思い出すが、そう割り切ってしまえば話は簡単だが、ただなんとなく割り切れない気もするのである。(63・12・9)

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