疫学の論理

 

 疫学の立場から論議のすじみち、といったことを考えてみたい。

 こんな考え方をもつに至ったことをふり返ってみると、それは疫学という言葉が、まだ一般になじみのなかった昭和30年代のはじめの頃にさかのぼる。

 昭和32年10月、大阪で第12回日本公衆衛生学会が開かれたときの、老人性疾患の分科会での”長寿の要因”に関する討議は興味のあるものであった。

 そして討議の最後の、渡辺定博士と近藤正二教授との間で行われたやりとりは、多くの将来への問題を含んでいるように思われる、と書いている(日公衛誌,5,87,昭33)。 その内容は、近藤教授が長寿者率は手軽に短命村、長命村をきめる公衆衛生上有用な指標であって、今後益々多くの人達に用いられるようになるであろう、としたのに対し、渡辺博士は、近藤教授のごとき名人がこれを用いるならよいが、人口学者は多くこれに反対をとなえているとし、長寿者率が一般にたやすく用いられることは、はなはだ危険である、としたことであった。

 その討論の場にいあわせた者として、この点をはっきりしておかねばならないと感じたのであった。そのことは研究の論議のすじみちをはっきりさせておかなければならないということであったと思う。

 それから20数年私なりに疫学という論理にもとづいて研究してきたのであるが。

 広い意味での医学の研究によって、過去から現在まで積み重ねられてきた成果は、それぞれの論議のすじみちに従ってきたものであろう。生理学は生理学なりに、病理学は病理学なりに。疫学的研究はどのような論議のすじみちをもって行われてきたのであろうか。

 疫学とは何か、疫学者とは何か、ということが現在でも論ぜられている。

 ”疫学的研究”と名付けられた研究が行われる場合、どのような問題に疑問をもち、問題点をつかみ、それに対してどのような研究計画があり、その研究の方法論に疫学としての特徴があることが必要である。そしてどのような成果をあげたか、その研究による成果について言及できる範囲はどこまでなのか、さらに残された問題は何であって、将来何をなすべきか、その論議のみちすじが明らかであって、はじめて疫学的研究といえるのであろう。

 ”食塩と高血圧との関連が疫学的研究によって明らかにされた”とよく引用されるようになった。これで疫学的研究はもうおわったと考えているのであろうか。

 健康問題についていろいろ論議されている。それぞれよってきたる学問の論議のみちすじがあってのことと思うが、その中で疫学的研究も又、その論議のすじみちをはっきりさせておかなくてはと思うのである。

(巻頭言:日本民族衛生学会誌,47,昭56)

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