新しい名前がほしい

 「公衆衛生」のあゆみ

 

 言葉は生き物である。名前がつくと歩き出す。衛生100年、厚生40年、そして公衆衛生は30年。

 「公衆衛生」という言葉をきけば、本誌「公衆衛生」を思い、あるいは「公衆衛生学会」「公衆衛生学教室」を連想しなければいけないのかもしれないが、それにしばられる必要はない。

 「衛生」がわが国で用いられるようになり、厚生(省)ができて今日に至ったいきさつ、また戦前に用いられた公衆衛生についてはここではふれない。

 今日のテ−マの「公衆衛生」とは、わが国の新憲法の中に登場した「公衆衛生」であり、そのもとになったといわれる”Public Health”について考えなければならないと思う。また同じ頃、1946年に、当時の国際連合の国々がニュ−ヨ−クに集まって、WHOの大憲章(A Magna Carta for World Health)をつくったときにのべられた”Health”を考えなければならないと思う。

 われわれがこれをどう受けとめ、どのようにこの30年間を歩んできたか。

 終(敗)戦を迎えてすぐの、1945年(昭20)9月22日に、連合軍から「公衆衛生対策に関する覚書」(SCAPIN 第48号)が発せられている。

 翌21年10月には「公衆衛生雑誌」が日本医学雑誌株式会社から創刊され、22年10月には「第1回公衆衛生学会」が開かれ、公衆衛生学雑誌3巻2号は、その特集号である。25年には「公衆衛生学雑誌」は8巻1号から「公衆衛生」と改題され、日本医学雑誌株式会社と学術書院が合同して医学書院となった機会に、8巻4号から日本公衆衛生協会の機関誌となった。29年には日本公衆衛生協会は自ら「日本公衆衛生雑誌」を創刊し、34年からは日本公衆衛生学会の機関誌としての「日本公衆衛生雑誌」となった。そして雑誌「公衆衛生」とともに今日に至っている。

 昭和13年に内務省衛生局が厚生省になるが、同じ年「公衆衛生院官制」が公布されている。この出発の歴史の中で、昭和5年当時の内務省衛生局長からロックフェラ−財団宛の書面の中に、次のような文面をみることができる。

 ”is planning step to meet the problem of technical training of public health personnel”誰が草案を書いたのであろうか。

 その結果誕生した「公衆衛生院」も、昭和17年厚生省研究所になり、戦後の21年に公衆衛生院の名称が復活し、公衆衛生技術者の養成訓練を開始する。

 厚生省の機構改革の中で、21年に「公衆保健局」が創設され、全国の13道府県の衛生課は衛生部となる。厚生省の公衆保健・予防・医務の衛生3局のほかに薬務局が加わたとき、公衆保健局が「公衆衛生局」となる。その後本省、各都道府県での「公衆衛生」はどんな歩みをつづけたであろうか。

 医学部における「公衆衛生学教室」の誕生は昭和24年頃からである。それより先21年に、国民医療法の改正の中で、医師の免許を受けるためには、医育機関を卒業して1年間の診療と「公衆衛生」の実地修練を行った後、国家試験に合格しなければならないこととなる。その公衆衛生の実地修練は、保健所機能の強化の中で、保健所で行うようになり、国家試験については、公衆衛生の課目に関する知識と技能が要求されることとなる。

 公衆衛生学講座が従来の衛生学講座のほかに全国の医科大学にもうけられることになったいきさつについては、野辺地慶三先生のお話によると、当時”two departments”が必要と考えられたようであるが、名称として「公衆衛生学講座」が登場するのである。とってつけたように「公衆衛生」に「学」をつけたからといって学問の体系が新しく誕生したことにはならないと思うが、これがまた今日の問題を生んだともいえないこともない。「公衆衛生」に関する学問の分野と考えるべきであったと思うが、これが公衆衛生学と短絡したことに問題があったと思う。

 このような「公衆衛生」のあゆみの中で、はじめて「公衆衛生」を受け入れた先輩たちは、「公衆衛生」は「衛生の民主化」ととらえられていたことが文面で理解される。

 第1回の公衆衛生学会において、文部・厚生両大臣に対する建議文がつくられ、速やかな実施が要望されていが、その内容は今日でも通用するものである。

 1)公衆衛生に関する講座を設置又は増設し有為なる青年学徒をしてこれに情熱を喚起せしめるの措置を講ずること。

 2)公衆衛生に関する研究調査等に関する経費を大幅増額を図ること。

 3)全府県に衛生部を急速に設置するとともにその第一線機関たる保健所網の充実整備を図ること。

 4)公衆衛生関係機関職員の地位の向上並に待遇の改善を図り、有為なる人士の積極的なる参加を図ること。中央地方を通じ公衆衛生関係予算を増額し、少なくとも全予算の10%以上たらしめること。

 ところが、この内容は、同じ日連合軍総司令部のサムス大佐の挨拶の中に述べられていることとほぼ一致している。すこぶる景気はよいが、どう考えたらよいのか。われわれ自ら”健康”にめざめ、ここに建議したとは受けとられない。そして30年すぎてしまったのではないか。

 

 「Public」が「公衆」に、「Health」が「衛生」になったが

 「公衆衛生」を分析すれば、日本語では「公衆」と「衛生」に分離される。数百年の歴史の中に生まれたといわれる”public”が、わが国の国語の中の”公衆”にすぐあてはまるのであろうか。”衛生”がすぐ”health”になるのであろうか。われわれ自身が”public health”をわかっていなかったのではないか。

 名前がきまるには何かのきっかけがなければならない。過去の事実はそれを教えてくれる。環境庁も生まれた。また最近できる大学には新しい名称の講座が生まれている。基本的には、人々のもつ健康問題の変貌が動機ずけの要因となるのであろう。

 東北地方の人々の、この20年の歩みをみても、人々の健康問題の変遷には目をみはるものがある。出生率は変わり、乳児死亡率は低下し、”シビ・ガッチャキ”はなくなり、”あたり”は変貌している。そして老人のもつ問題は今後ますますその深刻さはますだろう。

 それらの人々の健康問題の変貌の中で、研究はそれを行う人々の自由であろう。その自由が確保されなければならない。それは人々の創意に期待し、それがいつか人類共通の財産になることを期待するからで、そのための研究費は最低限確保されなければならない。

 「公衆衛生」の研究は、何も公衆衛生学雑誌、公衆衛生学会での研究のみではない。どんな学問の領域のものでも「公衆衛生」に関連をもつ可能性はあるのだ。

 私は、「衛生」を人および人々の健康の原理を追究するとすれば、「公衆衛生」は人を含む人々への健康の原理の適用と考えたい。それをわれわれが、人々が、それをきめていかなければならない。その為に金がいる。その「公衆衛生」の研究にも金がいる。その立場にたつとき厚生省の研究助成の金額が、昭和51年度予算案で、癌に対して13億5千万円というのに、循環器疾患に対して1千万円とは、どうしても理解できない。

 われわれが医学の中で「公衆衛生」の教育を行ってきたのは、”public health minded”の医師を育てるためといわれてきた。「公衆衛生」は医師だけのものではなく、医と関連のある人々の中の教材にも「公衆衛生」はある。一般の人々に対しては健康(衛生)教育である。これはもっとのびなければならないものだと思う。いろいろいわれてながらも、この30年間の教育の中に育っきた人々が人口の大半を占めることになった。この人たちが新しい言葉を考え、新しい歩みを進めてゆくことを期待したい。

公衆衛生,40,546,昭51.8.)

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