尻にしかれた相良知安

 

 相良知安は、日本における医学教育・医療制度を考える上で、忘れることのできない人物であると思う。

 その人の記念碑が、今や看学の寄宿舎の尻にしかれたように立っているというのがこの小文のテ−マである。

 明治維新のあと、ドイツ医学の導入を身を以て提唱し、明治6年初代の医務局長となるが、後の衛生局長長与専斉の下で確立された「医制」の草案は、ほとんど彼の筆になるといわれている。

 「護健師」を中心に書かれた建白書を懐にして外出したとき、冤罪で逮捕されるという不幸にあうのだが、その建白書にもられていた思想が、その後の日本に生かされていたら、どうなっていただろうかと思うのである。

 明治のはじめ、今の上野公園を一望にながめられる池の端の高台に立って、医学校の構想をもったといわれるその場所に、相良知安の記念碑がたっている。

 それが、今東大の看護学校の寄宿舎のうしろに、丁度尻にしかれたようにたっていると私には思えるのである。

 この日本の医学の先覚者といえる人の末路は、遊女を相手の大道易者でおわったといわれるが、今また看護婦達の尻にしかれて、これも世の中だといっているような気がしてならない。

(日本医事新報 ,2646,23,昭50.1.11.)

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