Dr. Dahlとのであい

 

 1959年1月29日付で、私はDr.Dahlから次のような手紙を受け取った。それは、私が彼の仕事に興味をもち、東北地方における高血圧と食塩摂取についての私の論文の別刷りを送ったことに対するお礼の手紙であった。

・・・I would be delighted the continue a correspondence with you, and in particular, I would be pleased for any specific information that you may have on the salt intake in the various prefectures from north to south in Japan.

Please feel free to write me at any time concerning your studies since I am vitally interested in this subject, and indeed , am engaged in full time investigation on hypertension only,・・・

 それから何通の手紙が往復したことであろうか。わが国における食塩摂取量についての実測値、みそ、しょう油の話、市販されている食塩の分析値、そして尿の食塩の測定法、単位など。

 昭和40年度の文部省の在外研究員として私の渡米がきまったとき、第一のよろこびは、Dr. Dahlその人に会えることであった。

 食塩と高血圧の文献をしらべていくと、必ずぶつかる論文がある。それはDr.Dahlの論文だ。私も弘前大学へきて高血圧の疫学的研究をはじめたので、当然なことながらDr.Dahlの論文にぶつかり、さっそく手紙を書いたのである。

 Brookhaven National Laboratory とはどんな研究室なのか。その研究室のあるNew York のLong Islandとはどんなところなのか。Dr.Dahl その人はいったいどんな人なのか。彼の名は正しくはなんと発音するのだろう。それらの疑問は、直接この目でみて、解決されるだろう。こんなことが彼に会うその日までつづいたのである。

 1965年9月羽田発。ミネソタ大学の生理衛生研究室へひとたび腰をおちつかせたが、西海岸、中央、南とアメリカ国内の旅をおえ、東へと出かけ、ボストンからニュ−ヨ−ク入りしたのは、街にクリスマスのかざりのある12月8日であった。

・・・It is indeed fairly time-consuming to get out here from New York. However , if you will take the train which leaves Pennsylvania Station, New York City, at 8:06 a.m. and arrives in Patchogue, Long Island, at 9:41 a.m.., this train will be met by the Laboratory bus, which will bring you out here. I will see that get back on the train that night for New York.・・・

 上半分を雲の中に姿をかくしている摩天楼の近く、昔は華やかな終着駅であったと思われるPenn Stationも今は改造の途中であった。ごみごみした仮設の入口の階段をおりて地下へ、いってみればちょっと前の新宿の小田急にでものった調子であった。

 ラッシュアワ−の逆コ−スなのでがらがらの汽車にのり、車掌の切符の切り方をおもしろがってみているうちに予定どおりPatchogue到着。駅前の迎えのバスにのり込む。バスといっても大型のバンで、同じ汽車でついた数名の訪問者をのせ出発。車の中で訪問先と自分の名前をサインすると、順にめざすところへつれていってくれるしかけになっていた。飛行場にもなりそうな広い敷地なのでどこに何があるかもわからないうちに、ドクタ−ここですと研究室の前についたのは10時すこしすぎ頃だった。

 受付の女の子に来意をつげると、廊下の向こうから長身のやせがたの白衣をつけた人がやってくる。目をくるくるさせて、それがDr.Dahlその人であった。自分みずから出迎えてくれる。これが礼儀というものか。アメリカ人のしきたりなのかはわからない。ただ握手をした瞬間から、昔からの知人として話ができたことはたしかだった。

 廊下をあるきながら、まず先生の名前はなんと発音するのかをたずねた。答えは”ド−ル””ド−ル”と書くのが日本語にした場合一番あった発音になろう。以前は”ダ−ル”とか”デ−ル”とか書いたことがあったが、今後は”ド−ル”とか書くようにしよう。英語ではaはオ−に、oはア−によめばだいたい間違いないといったことが頭の中をかすめているうちに部屋につく。

 それから誰も来ないのである。まったく1対1の話あいで、それが夕方までつづいた。この研究はあの人、この研究はこの人というのではない。Dr.Dahlその人が、アイデイアの持主であり、研究の推進者であることがわかった。論文にたくさん名前がのっている場合、そのうちの誰がその仕事の推進者であるのか、重要なことには違いないにしても、それがなかなかわからないのである。今回の留学に際して、私の主な目的は、研究をやっているその本人にあって、直接話しあうことであった。そして私のえらんだ人のどの人もが、自分の考えをもち、研究を進めている人であったことはうれしかった。そして自分も、自らの研究を自信をもって話せたことも。

 Dr.Dahlはどんな研究をやってきた人か。彼がどんな動機で、食塩と高血圧の問題に没頭しはじめたかは知らない。彼が以前ここの研究室の人たちを対象に、食塩摂取と血圧との関係を調べた仕事はよく引用されている。やり方がおもしろかったのだ。アメリカ人の食塩摂取量は平均10g程度だが、それを規制しているのはtable saltとにらんだのである。だから彼は、食卓に料理が出たとき、味みをせず塩をふりかける人、味をみたうえで塩をふりかける人、全然塩を用いない人と3群にわけ、それらの血圧を比較して、食塩摂取の多い人に血圧の高い人が多いことを報告したのだ。こんな調査できれいな成績を得たことはまことに幸せな結果であったと思う。事実、あとで他の人が同じ方法で追試してもよい成績は得られなかった。だがこれは彼の本筋の仕事ではない。

 1958年彼は広島に滞在し、日本の実情をみている。前から食塩の問題を研究されていた千葉大生理の福田教授の東北農村での成績を知ったときは、Dr.Dahlはおどろき、よろこんだに違いない。Dr.Dahlの部屋には千葉の方々と一緒にならんでとった写真が、その思い出を語るようにかざられている。また私たちの仕事にも興味をもったようだ。このへんの様子は、Nutrition Reviews(vol.18,1960)にThe Japanese Experienceとして報告されている。また1960年Berneで開かれた高血圧の国際シンポジウムにわれわれの研究を引用し、食塩摂取と高血圧との国際的比較を報告している。

 だが、Dr.Dahlの仕事の本流は、もっと基本的な問題を追求していることにあるようだ。むしろ、いわゆる疫学的研究についてその限界にみきりをつけているかにみえる。

 疫学的研究で何がわかるか、といった基本的な問題を追求していることあるようだ。しかしちょうど出発前の春の循環器病学会のシンポジウムで発言した東北農村での親子・夫婦の血圧の相関関係についての仕事にはすぐとびついてきた。すぐ抄録を秘書にコピ−させたから。

 今彼は、食塩に対する”SENSITIVE”と”RESISTANT”の2つの系統のもつ問題に没頭しているようにみえる。これは高血圧の発症における”GENETIC SUSCEPTIBILTY”と”ENVIRONMENTAL FACTOR”の問題なのだ。このあとの追求は、他人のアイデイヤをしっけいすることになるから書くのはさしひかえよう。いずれ印刷になる彼の論文を期待しながら。

 ニュ−ヨ−ク行最終便まで、Dr.Dahlの自宅でごちそうになった。

 アメリカにしてはやや時代おくれの自動車で案内されたことも、また私の胸をうった。だがDr.Dahlは、彼に会った誰もが言うようにniceでスマ−トなのである。研究にたいするまじめさ、謙虚さ、するどさ、そして奥さんと娘さん3人の平和な家庭のなかで、彼のSALT INTAKEの教育実験にされたという娘さんを前にして食卓の話題はすぐ食塩にむすびつくのである。

 この一家は、1966年のクリスマスと67年の新年をコペンハ−ゲンで迎えたという。

(公衆衛生,31,226−227,昭和42)

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