叙勲に思う

 

 それは全くの偶然の機会であったと今思うのだけれど、旅行でバスに乗って盛岡へ行く途中顔を覚えていた弘前大学の庶務にいる方に挨拶を交わしたとき話かけられたことから始まった。

 「叙勲のことですが、先生はちょっとまってくれと言われているそうですが」

 一瞬、以前弘前大学の事務局庶務部人事課に出した書類を思い出し、ああそのことが話題になっているのだと思った。

 その書類とは次のようなものであった。

 私が女子大の家政学科長という役職についてから大学にくる書面にはすべて目を通し印鑑をおす役目をやらなければならなくなったある日、文部省高等教育局大学課からの「各国公私立大学栄典担当課長」宛の「生存者叙勲事務について」の事務連絡の書面があった。

 ああこれだなと思った。

 医学部の教授時代にはそのような書面にふれる機会はなかったが、事務的にはすすめられていたことであろう。

 私が停年以後の人事記録について弘前大学へ報告したとき「小生只今東北女子大学教授として勤務中でありますので、現在は候補者としての推薦には遠慮させて戴く所存であることを申しそえます」と書き足したのであった。

 「生涯現役」という気持もある。「いっちょあがり」と言われたくないといって政治家はなかなかうんと言わないと。またその手続きをことわられた方がいた話も聞いたこともある。「福沢先生の故事」もある。自分が習った先生より高い位のものはもらいたくないといった先生がいたという話を聞いたことがある。たまたま国立大学に長く勤めていたというばかりで、津軽弁でいう「めぐさい」「めぐせ」、はずかしいことではないのですかという意見も身近に聞こえる。

 「あとになってもらいたいということで手続きをとったときには事務的に大変でした」と事務官の言葉である。ああ事務には事務の苦労があるのだな。「女子大学勤務はポイントにはなりませんよ」と面白い表現であった。そんな一瞬の思いと会話がすぎさったあと時が流れた。

 

 慶應義塾大学医学部新聞に佐々木正五さんが「叙勲を受けて」という文を書いておられた。

 「従来から叙勲を受けるべきであるという意見と、断わるべきであるという見解があるが、それは夫々が尊重されて然るべき事柄であろう」「慶應の関係者の中にも、かつて福沢先生が叙勲を断わったという故事に準えて自分も断わりたいと考えている人も少なくないが、・・・」「自らが自己を評価し、仲々積極的には動けなかったが、東海大学の方々の御尽力によってそれが実現し、共に喜んで頂けた事を感謝し、且素直に自分自身も喜んでいる反面、私自身が夫々の領域の中で具体的にどれ程の働きがあったかを反省し、今後の残された人生にそれを反映させてゆきたいものと願っている」との気持を率直に書かれていた。

 五十年も前医学部卒業を前にして、一足先に海軍軍医になられた正五さんのお宅に伺ったことを思い出した。

 戦後書類をもらったのであるが、海軍軍医になったあとの昭和19年には「従七位」に、昭和20年に「正七位」に叙されていた。

 「位階:勲功・功績のある者に与えられる栄典の一種。604年推古天皇の時、隋(ずい)制を摸して制定。新憲法後も位階令はなお存続する」「勲功:国家または君主に尽くした功労」「叙勲:勲等に叙し、勲記・勲章を授けること」「勲記:叙勲者に勲章と共に与えられる証書」「勲章:勲功を表彰して国家から与えられる賞牌」「栄典:栄誉を表するために与えられる位階・勲章など。栄典を授けるのは天皇の国事行為の一つ。栄典には特権を伴うことなく、かつ受けた者の一代に限る」と広辞苑にあった。

 「福沢先生の独立自尊主義は、全てにおいて(私と公)を区別を明らかにすることでもあった。福沢先生にとって学問をすることは(一身の楽事)であり、(たとえもなく愉快なこと)であって、決して世の中の(公の)(栄誉を望んで学問に励む)ものとは考えておられなかったのであろう」との福沢先生の表彰につての考え方を「福沢諭吉と幼稚舎」の中で中川真弥さんが三田評論に書いておられた。幼稚舎という小学校に学んだ私もそう思う。

 慶應義塾に学び、弘前大学に奉職するようになったときの「あっと驚いた話」を「衛生の旅 Part 3」に書いたことがあった。

 弘前大学という大学、また衛生学を担当してきた自分としては、私のたどった道は全く自分一人というわけにはいかないという自覚もある。しかし栄誉を目標に「教育・研究・社会への奉仕」をしたという気持ちはない。「県褒賞」そして「保健文化賞」を戴いたときにはそれなりにその意義を思い、感想をのべたのだが、東北女子大学を退職した今となっては「叙勲」の手続きを断わる理由はみつからなくなったという今日この頃である。

 「間違いがあってもこまりますから」と事務から菅原和夫教授を通して連絡があった。書類の文面は「弘前大学名誉教授」の功績調書がもとになっているようであった。「保健文化賞」が「健康文化賞」になっていた。以前に「保険文化賞」「保健大賞」と書かれたことを思い出した。

 

          功績調書          ささきなおすけ

                  勲 等   佐々木直亮

 

 右は、大正十年一月十七日東京都港区に生まれ、昭和十八年九月慶應義塾大学医学部を卒業し、同年九月より軍務に服し、昭和二十一年十月慶應義塾大学医学部助手、昭和二十七年五月同大学医学部講師を経て昭和二十九年一月弘前大学医学部助教授、昭和三十一年九月同大学医学部教授に就任した。以来昭和六十一年三月停年退職までの二十九年八ケ月にわたり医学部衛生学講座を担当し、この間昭和四十四年八月より昭和五十四年七月まで弘前大学評議員、昭和五十六年三月より昭和六十一年三月まで弘前大学付属図書館医学部分館長を併任した。昭和六十一年四月より東北女子大学教授に就任し、平成六年三月に同大学教授を退職した。 この間、同人は昭和二十九年一月以来弘前大学においては三十年以上にわたり、助教授、教授として医学生の教育と研究に務め、同人より医学教育を受けた卒業生の数は二千七百余名に及び、又同人のもとで大学院生や研究生として直接指導を受けた者は四十余名に及んでいる。

 また弘前大学評議員、弘前大学図書館医学部分館長として弘前大学の管理と内容の充実発展に多大の貢献をした。特に同人は弘前大学着任以来、日本の、特に東北地方に若い時期から多発し、その原因や対策が不明であった脳血管疾患についての疫学的研究を展開し、その予防のための手がかりを得た。すなわち、食塩過剰摂取による疾病発生論的意義を指摘し、また、りんごに高血圧予防の効果があることを初めて指摘した。これらの成果は、世界心臓学会などの専門学会に報告され、その成果は脳血管疾患・高血圧の原因の解明と予防の面から国際的にも高く評価されている。昭和六十一年に弘前大学名誉教授の称号を授与されている。 さらに、同人は、科学技術庁資源調査会専門委員(昭和三十八年から昭和四十六年)として、日本の食品流通体系の近代化に関する勧告の作成に関与した。昭和三十九年日本衛生学会、昭和五十五年日本循環器管理研究協議会、昭和五十八年日本民族衛生学会を会長として主催し、斯

学研究の進歩・発展に寄与した。

 これまで同人は、日本衛生学会など多くの医学会の理事、幹事または評議員として、それぞれの学会の運営に携わり、その発展に多くの寄与をし、日本衛生学会、日本民族衛生学会、日本公衆衛生学会、日本産業衛生学会、日本脳卒中学会、日本疫学会、日本循環器管理研究協議会の名誉会員、日本高血圧学会の特別会員に推挙されている。

 また、青森県医療審議会、青森県公害審査会、成人病対策協議会、地域保健医療対策協議会などの委員として、地域社会の公衆衛生発展に多大の寄与をし、昭和五十六年に青森県褒賞、さらに青森県の特産物であるりんごの高血圧予防効果を世界にさきがけて指摘したことにより昭和五十八年には木村甚弥(りんご顕彰会)賞、さらに昭和六十一年には我が国における成人病対策の進歩発展に対する多大の貢献に対し保健文化賞(厚生大臣賞)が授与されている。

 以上のように、同人は衛生学に関して永年にわたって、真摯な態度と信念を持って医学の教育および研究を行い、特に脳血管疾患・高血圧の疫学的研究では特筆すべき業績を上げ、その成果を地域社会の公衆衛生向上に尽力したものであり、その功績はまことに顕著である。

  ああこれがわが73歳の人生であったのか。これで弔詞を読んでくれる人がいたら苦労しなくてもすむな。もっとも葬式はやらないように身内には言っているが。(6-9-10)

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