衛生学教室のアルバムから(その23)

 

 弘前に来て街を歩いていると、なかなか良い建物だと思うのにぶつかることがある。

 土手町を弘前公園の方へ歩いて行って一番町の坂を登ったところ、昔の市役所の隣にあった立派な建物が目に入った。すぐさまシャタ−をおしたのが写真1である。

写真1 青森銀行弘前支店 昭31.5.

 それは青森銀行の建物であった。

 この建物は旧五十九銀行本店本館で、青森での地方銀行の歴史の中でも意味のある建物だし、また一口で明治建築の代表とでもいえるものであろう。昭和58年近代洋風建築シリ−ズの記念切手にもなった。

 青森銀行弘前支店と対外的にもわかりやすい名前だったので研究費などの取引銀行として利用したが、次第に古くなり新改築の時がきたとき、当時の理事者は心ある人であったのであろう、明治村にでも行くべきこの建物の保存を考え、そのまま一寸うしろへずらして記念館として保存してくれた。そして今も昔の面影をみることができる。

 写真は昔の場所にあって仕事をしていた昭和31年5月観桜会の頃撮ったものである。

 

 郵便切手というと青森県に関係のあるものとしては十和田国立公園や下北国定公園の記念切手のあることは知っていたが、淋代海岸の名前がでているのがありますよ、それもアメリカの切手で、知っていますかと聞かれた。

 ああその場所ですか、青森の三沢市にあって、太平洋無着陸横断の飛行機が飛び立った海岸で、そこに記念碑があって、その写真はアルバムにありますよ。

 そうそうその出発の記事の第1報を送ったのが当時の東奥日報の記者をしていた前の竹内知事さんで、米ウエナッチ市に着陸したのだが、その市と三沢市は姉妹都市になって、そこへ三沢市立病院の中村義弘院長(34年卒5回生)がよばれて、オ−プンカ−にのってパレ−ドした相ですよ。またりんごがとりもつ縁といった話もありますよ、などなど、友人と盛岡から仙台へのドライブ中の話題はつきなかった。

写真2 記念碑 昭45.8.

 写真2は淋代海岸にあった時記念碑で、昭和45年の夏季保健活動で三沢市にいった時撮ったものである。あったと書いたのは今は別の記念碑になっているからである。

 昨年秋アメリカへいった時その切手をさがしてみたが、USAirmailは33c.になっていて、もう郵便局には売っていなかった。幸いなことに私の従兄弟の家で昔買い置きのものがあって入手できた。

 正にFirst Transpacific Flight 1931 Sabishiro Beach Japanと印刷してあった。

 昭和44年ウエナッチ市に建立つされたミス・ビ−ドル号の記念碑の除幕式に出席した竹内先生が、記念にふさわしいモニュメントであるが、碑文に「日本からウエナッチに飛んだ」と記され、「淋代から」と記されていない点が私には寂しかったと書かれていたが、その父上へ渡して戴ければお喜びになるでしょうと、竹内黎一代議士にお土産に送ったのだが、間にあったであろうか。去る11月 8日忽然と竹内先生はこの世を去られてしまった。

 竹内俊吉先生はわが弘前大学医学部の前身の青森医専が産みの苦しみを味わっていたとき、その時は青森県選出の代議士としてお世話になったのだが、昭和18年12月10日「アオモリイセン ケフノカクギ デ ケッテイシタ タケウチ」の第1報を送って下さった先生でもある。

 

 「一人かけ また一人かけ 一人かけ」

 とは古賀康八郎先生が亡くなったとき書いたのだが、今度は佐藤光永先生があまりにも急に亡くなってしまった。

 東北女子大学という同じ学校でお合いすることも多かったが、目が一寸ご不自由なだけで元気で病態栄養を毎週講義されていた。

 亡くなる1週間前だったか教授会で隣に座った時、「今度の先生方のお祝いの会には一寸体の調子が悪いので失礼させて戴きます」といわれた言葉が最後の会話になってしまった。

写真3 佐藤光永先生 昭42.3.13.

 先生の写真はアルバムにはいくつもあるが、写真3は今から20年前、新しい基礎の校舎が出来上がって明日は引っ越しという時に、基礎の教授会である水曜会を古い校舎でやりましょうと照井先生の教授室で事務官ともどもやったときスナップしたものである。

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