衛生学教室のアルバムから(その5)

 

写真1 昭29.9.      写真2 昭51.5.

 写真1,2が、医学部の同じ場所からとったものだとは誰がわかるであろうか。

 今の人達には、写真2は毎日みているところであるからすぐわかるだろうが、その人達も、この場所が昔どんなであったかはわからない。

 昔、といっても20年前なのだが、その当時医学部に学んだ人達なら、写真2はわからないにしても、写真1は思い出の多い場所だからすぐわかるだろう。

 この二つの写真を撮った場所は、全く同じ医学部のすぐ裏手にある神社のある小高い丘なのである。その場所で彼と彼女がデ−トしていた像が、アルバムにはないのだが、私の頭の中にまだ焼き付いている。

 写真1は、昭和32年、丁度新しい建築がはじまり、8月24日に鍬入式のおわったあと撮ったものである。。このあとブルト−ザ−が入り、次々と変わっていったのである。

 右手の向こうにみえる建物が臨床の教室のあったところで、その手前が「人寮」である。

 中央の小さな坂に雪がつもり、はじめて乗り始めたコロナを寮生におしてもらったことがある。又若きいのちが失われた場所でもあった。

 小さな動物小屋、ここの動物の鳴き声はこのあたりに響いた。左手の白い建物が図書館で、その前の坂はスキ−の練習用のスロ−プになった。

 さて写真2は現在である。右手の建物は臨床研究棟をうしろから見たところ。手前の木造はいずれなくなる元生協の食堂。屋根が波うっているところは会議室で、教授会はここで開かれている。学園紛争はなやかな頃建てられた為、学生がきたら・・・と考えられたとか考えられなかったとか。

 左手に基礎の六階の建物、その手前は図書館である。そして前の広場には学生の自動車で一杯である今日この頃である。臨床研究棟と基礎の建物に渡り廊下が近く出来る予定になっている。

 この写真の右の方には臨床の病室と看護婦寄宿舎、左の方は看護学校で、現在は医療短大の名札がかかげられている。

 20年は長いようで短い。それぞれの思い出のある中で、私も教授就任20周年を迎えることになってしまった。

写真3 教授就任20周年記念 割烹中三にて 昭51.10.6.

 写真3(11頁に掲載)この10月16日に、割烹中三に教室関係者が集まってお祝いの会を開いて下さった。ときのものである。私より前からいた人、そして新しい人、私のとなるにいる女性は家内である。

発起人代表武田壌寿先生の話から

 「考えてみますと 衛生学教室の方々はおまつりごとがすきな方だということで・・・」「今県下で、色々な学校で百年祭をやっていますが、数字にかこつけて集まるというのは一つの生活の知恵だと思います」「以前からおられた方も、一緒に一同集まってお礼を申しあげたい」「又自分自身にとっても、思い出をあらたにする良い機会である」

「論文という形では業績は残るが、論文を作り出すプロセス、失敗したこと、悩んだことはわからないので、思い出すまでに色々話していただいて、テ−プにとって記録にしたい・・・」

 佐々木教授のお礼の言葉から

「開講25周年の記録を以前につくったとき、”毎日毎日が歴史である”と書いたのですが、今日も又その一頁を迎えることができた気持ちです」

「小野先生に自宅までお迎えを戴いたのですが、これは”記念式 結婚式のように 迎えられ”とのようです」

「考えてみますと私達結婚して25年になりますが、”銀婚式をこれですますわけではありませんが”(笑い) 家内までよんで戴いて有り難うございます」

「多くの方々に出会い、よき人にめぐまれ、自分のすきな道をつづけてこられたことは本当に幸いでした」

「講座と教室の名の差は分からないのですが、同じ窓に学んで学派が出来上がってゆくものだと思います」

「今年の夏、とくにいそがしかったのは、今までの20年間の仕事のおいこみに入っている段階で・・・」

 −−−記念品は 津軽の陶人”鳴海要”氏の近作「壺」でした。−−−

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