りんご覚書(その1)

 

 先日久しぶりに青森県りんご対策協議会から「りんごと健康」の講演を頼まれて、平成11年10月19日夕、シテイ弘前ホテルでの「平成11年度青森りんご報道記者等招待事業」の中でマスコミ関係者十数名を前に喋った。

 誰がどういうわけで私を選んだかはつまびらかではないが、始めに「電通」の方から電話があったところから考えると、この事業を引き受けた「電通」が今年のテ−マが「りんごと健康」であり、前に私が第一出版から「りんごと健康」を出したとき、ちょうど学会で在京中の私を東京で開かれたりんご関係者との懇談会に呼んでちょっと喋らした時、本を500冊位宣伝のために買って配っていたと記憶しているが、その時のことを覚えている人であったのか、コンピユ−タで「りんご」で検索すると私の名前が出てくるせいか、時にTV会社などから出演の依頼はあっても最近は「おことわり」しているのだが、場所は弘前だしあとの懇親会で夕飯も食べられるし、すこしは地域のために役にたつと思ったので、「講演料」のことなど何もいわずに引き受けたのであった。正式の書面は「りん対協の会長」さんからのものであった。

 「りん対協」としても報道記者が一般記事として「りんご」のことを書いてくれれば、その記事の広告効果、広告代に比べれば安いものとふんだのか、どれだけ予算をとったのかは知らないが、マスコミ関係者の交通費・宿泊費など、青森空港についてから一泊2日の日程であった。「青森りんご試験場」「農協河東りんご施設(選果・CA貯蔵)」「講演」「懇親会」(りんご懐石)二次会(山唄)まで、翌日「中央青果」弘前ホスピタリテイ−アカデミ−での「りんご料理に関するレクチャ−」藤崎町「りんご園」板柳町「ふるさとセンタ−」そして空港へとの計画であった。丁度秋晴れの日にあたって本当によかった。初冠雪のあった岩木山をバックに色とりどりのりんごは記者諸君に良い印象を与えたのではなかったか。

 私は講演の始めに「私が早く亡くなってくれた方がよいと思っている方がいるのではないか」と喋った。「りんごが高血圧にきく」とか「りんごを1日一個のりんごを食べると医者を遠ざける」と「りんごと健康」との関わりについての仕事を私が死んでしまえば誰に遠慮することなく「伝説」「神話」として宣伝に使えると思っているのではないかと思うことがあると喋ったのであった。懇親会のとき会長が最初に私に耳打ちした言葉は「先生の仕事の版権はどうなのでしうか」であったことからもそのことが分かる気がするのである。それに対しての私の答えは「インタ−ネットのホ−ムペ−ジは公開の原則で作成していますから、色々とりんごに関するホ−ムペ−ジが作られているようですが私の(applehealth.html)に(リンク)して下さって結構です」と答えたのだが、会長さんがどれだけお分かりになったか。

 私がやってきた仕事は、一般的な記事が主ではあるが、ほとんどホ−ムペ−ジに入れてありますからあとでご覧下さいと喋ったのだが、記者の中には私のペ−ジをプリントアウトしたものをもっている方もいて、あとで分からないことがあったら「E-mail」でという方もいたのはさすが第一線のライタ−であったようだ。何しろ丁度プレ−ボ−イの記事で「次官の辞任」にまで追い込んだというニュ−スが流れた日であったし、その会社の記者もきていたから、その顔つき、口振りには若い記者の「筆」に自信があるのであろう。その上「ご馳走」になって、「あつものにさわるような」態度で接待されると、ついその気になってしまうのでないかと、東京にいる自分の息子のことを思いながら相手をした。もっとも彼らもそれなりに生きていかなくてはならないのだが。

 「昔現役であった頃、皆さんの先輩の記者、今は亡くなった方、主筆とか論説委員になっている方々が何十人と取材にきたことを思い出します。その方々に色々と喋ったことがありました」「明治の始めの教授達は君たちを相手に喋っていると日本の学問がおくれるといった話を聞いたことがありますが、今は学者が学会前に記者会見を開いたりして」

 「私のテ−マは(病は世につれ世は病につれ)です」「EBM(evidence based medicine)と云われるように証拠が必要です」「私がなぜりんごとかかわるようになったか」「はじめからりんごではなく」「橋田寿賀子さんが(いのち)の中で(このへんに高血圧が多い)としゃべらしていますが、そんなことは全く分からない時代でした」「疫学的に研究を展開し」「研究費をもらってやったのではなく」「もっともあとで少しもってこられましたが」「津軽衆ということで一番の料理や(中三)で会の方にご馳走のお返しをしたらなくなって」「でも学者としては精神衛生上はよかったし、大きな顔をしていられて」「パンフに出ている私の仕事の図表は無断引用で、それも30年も前の手がかりで」「それから定年まで(追いかけて追いかけて)研究をして論文を出しました」「でも学問の世界は日1日と進歩しています、昨日も国際フォ−ラムで勉強して」「結局りんごと健康の問題もいざとなったらわからないことだらけでというのが結論で」「でもりんごが健康につながるイメ−ジがあるようで、それにつながる仕事ができたことはよかったと思っています」と喋ったのだが、どんな感想をもたれたか。

 と書いてくると「りんご覚書」として、昭和29年からこのかたの思い出が次ぎから次ぎへとでてくるのだが、今回はここまでにしておくことにする。(991022apple)

(弘前市医師会報,268,71−72,平成11.12.15.)

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