食塩覚書その2(食塩所要量10g以下の意味)

 

 わが国の食塩摂取に関する勧告値として、昭和54年度改正の日本人の栄養所要量として食塩について「当面の努力目標としては、食塩10g以下を適正摂取量とすることが望ましい」とされて以来、昭和59年第三次改定、平成元年第四次改定、平成6年第五次改定のときも、「10g以下」とされており、現在に至っているのだが、この「10g以下」のもつ意味、そのような数値に至ったいきさつについて書き留めておく。

 

 わが国ではじめて食塩についての栄養所要量がきまったのは、昭和21年11月である。内閣に設けられた国民食糧および栄養対策審議会は、無機質およびビタミンに関して基準を定めることになり、日本人一日一人当たり所要摂取量として、15gという数値を妥当であると定めた。その後、何回かの会議があったが、食塩についての栄養所要量としての15gという数値は国民の「常識」として定着したようである。

 われわれが脳卒中・高血圧の予防を目標に「疫学的研究」を展開してうかんできた「食塩多量摂取の疾病発生としての意義」を考察することになったとき、この「食塩所要量」についての考察もすることになった。

 昭和44年の栄養審議会の答申に至るまでこの数値は変更はなかった。そしてそのつど決定にいたったいきさつについての解説が私の検討の資料になった。しかし、この「所要量」という用語が、「必要量」というのとは違って定義されていることが一般には殆ど知られていないことがわかったし、これを引用している百科事典、論文、保健指導書にわれわれの研究結果からなっとくいかない点がいくつかでてきた。

 その結果次ぎのような点が問題ではないかと考え、昭和48年札幌で開催された第43回日本衛生学会に「日本における食塩の栄養所要量についての再検討」(日衛誌,28,205,1973)を発表した。

 1)所要量決定に際して、安全率が考慮されているが、食塩の場合、要求量を10gとすれば十分であろうとし、さらに5gを加えて安全としている点に問題はないか。

 2)要求量という言葉が用いられ、「日本人の摂取食物は、植物性食品が多く、カリウムの摂取量もはなはだ多いので、食塩要求量も欧米人より多いものと考えなければならない」としていることに問題(間違い)はないか。

 3)「日本人の食塩所要量は、要求量のほか、味覚や嗜好による摂取量、すなわち習慣的摂取量をも考慮しなければならない」としていることに問題はないか。

 4)「一般に好ましい塩味は1.0-1.2%とされている」とし、これを基準に摂取食物の重量を乗じて、食塩の摂取量とみることに問題はないか。

 5) 習慣的食生活に左右される尿中食塩排泄量を考え、所要量を決定することの妥当性はあるのか。

 その他の疑問を提示した。これはわれわれのそれまでに行った研究をふまえての意見であった。

 昭和50年度改正の所要量決定の際、食塩についての数値は示されないことになった。

 この点について当時厚生省の栄養審議会の委員であった阿部達夫先生(東邦大学名誉教授)の話(日本医師会雑誌,115(6),58-65,1996.3.15.)がある。

 「栄養所要量の問題があります。昔は日本人の食塩の所要量というのがありまして、15gだったのです。そうしたら、高血圧の研究をしておられた弘前大学の衛生学の佐々木直亮教授(現名誉教授)から「先生、食塩の栄養所要量が15gという多い量ではね、所要量というのは、それだけ食べないと健康が保てないという量じゃないですか、そんなのはおかしいですよ」と言われまして、その後改訂されました」と。

 阿部達夫先生は昭和16年慶大医学部卒で私の2年上で学生時代から存知上げていた。こんなことが関係しているかもしれないと思うことがある。

 私が日本医事新報(2664,126-127,昭50.5.17.)の基礎医学からの記事の中に「食塩についての基準は廃止したというニュ−スを紹介し」「私は関係審議会の委員ではないので詳しいことは承知していないのだが、このニュ−スを読んで嬉しかったのは、長年主張してきた意見が採用されたように読みとれたからである」と書いたその記事を読まれた阿部達夫先生からお手紙を戴いた(昭50.7.2.日付)。

 「先日先生の医事新報の論文を拝見し、今回から食塩所要量が削除されたことに言及されておりますのをよみました。これは、実は大分前に先生が医事新報?にてこの問題にふれておられますが、この論文をよんで、私が次回改正のさいは食塩はやめるように献言しました。今回の措置に大きく影響したものと思います。したがって先生のご意見が大きく働いたと考えてよいと思います」と。

 昭和50年に食塩についての数値が除かれたことについて、当時委員の一人だった香川芳子先生(女子栄養大学学長)の話(栄養と料理,53(1),99-109,昭62.11.1.)(衛生の旅Part4-20)がある。

 「じつは私、食塩の表示をしなかったときの栄養所要量のミネラル委員会のメンバ−だったんです。栄養所要量に15gと書いてあると、みんな15gはとらなければいけないと思いこんでしまう。これは非常に困る。食塩はだいたい今の日本人の食事内容だったら、特に使わなくても命に別状はないというふうにメンバ−の一人の平田清文先生がおっしゃいまして、じゃあ書くのはやめようということでやめたのです。そしたら、今度は専売公社が困ると言い始めたんです。」 

(平田清文先生は昭和25年慶大医学部卒で東邦医大で阿部先生の教室にいた)

 昭和54年改定の時、「当面の努力目標としては、食塩一人10g以下を適正摂取量とすることがのぞましい」となったのであるが、委員会でどのような議論の結果そうなったのかは明らかではない。

 しかしその決定に先立つ昭和53年9月21日、丁度第8回世界心臓学会が東京で開催されていた会期中、委員の一人の平田清文先生から話があって「日本人の食塩摂取はどうあるべきか」の対談をやったことがあった。「ざっくばらんにご意見をききたい」「オフレコで」ということであったので、私は研究を通じて日頃考えていることをしゃべったのだが、テ−プをとっていた記者が内容を雑誌に掲載したいということになって対談の記事が後日でることになった(臨床栄養,54(5),413-424,昭54)(衛生の旅Part4-15)。

 この記事を今読み返してみると、私が極めて厳格な意見をいうのではないかとの平田委員としての気持ちがあったようによみとれる。

 この対談の中で、アメリカから電報を受け取ったことにふれているが、その文面は次ぎのようなものであった。

 「PLEASE ADVISE WHETHER YOU HAVE STUDIED SODIUM RESTRICTION ON HUMANS IN RELATION TO BLOOD PRESSURE WOULD APPRICIATE DATA ON SUBJECT AGE, AMOUNT OF RESTRICTION, STUDYTIME, CHANGE IN BLOOD PRESSURES EDWARD CALABRESE PHD DIVN PUBLIC HEALTH UNIVERSITY OF MASAACHUSETTS AMEHERST MA 01003 USA」いくつかの論文をair mailで送ったことを思い出す。 

 厚生省の審議会の結果としては「10g以下」という表現になり「適正摂取量」という表現が用いられることになった。

 この点に関して香川芳子先生が先の座談会で次ぎのように述べている。

「最少必要量というのは1g以下だというデ−タがあります。けれども、今の日本人の食生活からすると、一日1gというふうに書くと現実とあまりかけ離れすぎる。だから、今の日本人が平均でとっているのは10g以上あるわけだから、10g以下という目標を与える意味で、以下という表現にしたんです。10gは必要であるということではなくて、10gより少なくするようにという注意を与えることにしましょうということに」編集部「10gの人は、ともかく10gまで近づけていこうということですね」「多くても10gを越さないようにするという、そういう決め方にしたわけです。だから10gをとらなければならないという意味ではないんですね」

 この「10g以下」という意味は一般にどのようにとられているのであろうか。

 竹森幸一(弘前大学助教授・衛生学)はこの点に関して調査研究を行って報告している。「全国の保健所保健婦、栄養士の減塩指導の現状と問題点.日本公衛誌,38,438-445,平成3.6.15.」であるが、保健衛生の指導的役割を担っている方々ですら、「87.4%は10g以下、6.3%は10gと、5.7%は10g程度」と理解していることが明らかにされている。

 一般の方々はどうであろうか。「以下」とは「どこまで以下なのか」。大学病院の食事の処方にもどのよに反映されているのか。当時の報道記事また賛否両論の記事がでている。

 この点竹森助教授はさらに「日本人の食塩摂取目標値を一日当たり5g位と改正したらどうか」との意見を地域における減塩指導の経験から述べた(日循協誌,26,175-178,1992.)。

 以上のように我が国での食塩摂取についての数値としては昭和54年以降現在まで「10g以下」が「適正摂取量」として示されているが、ちょうど同じころ(1977年昭和52年2月)アメリカの食事改善目標として「食塩の消費を約50%から85%減らし、一日約3gにする」ことを目標にかかげたが、同年12月には「食塩は一日約5gに減少する」としたのだる。

 こんなことがあったので昭和54年にわが国で食塩所要量を勧告するときは、委員会としては苦労したのではないかと推察される。

The Sixth Report of the Joint National Committe on Prevention, Detection, Evaluation, and  Treatment of High Blood Pressure(ARCH INTERN MED,157'97)では「Lifestyle Modification for Hyperension Prevention and Management」の中で「Reduce sodium intake to no more than 100mmol/(2.4g of sodium or 6g of sodium chloride)となっており、1999年2月に発表になった「WHO・ISHの新しい高血圧診療指針」(WHO:World Health Organization:世界保健機関)(ISH:International Society of Hypertension:国際高血圧学会)では、生活改善療法の一つとして食塩については「減塩:6g以下」を示した(日本医事新報,3909:荒川)。英語では「The aim of dietary sodium reduction should be achieve an intake of less than 100mml(5.8g) per day of sodium or less than 6g per day of sodium chloride」(J.of Hypertension,17'99)となっている。(100mmlが2.4 とか5.8とかになっており混乱している)

 それにしてもわが国で示されている「10g以下」の「適正摂取量」の持つ意味を十分かみしめるべきではないかと思う。(1999.3.11.) 

4月20日付け阿部達夫・平田清文両先生からご意見・訂正の書面を戴いた。大事なことなので追加として記録した。

弘前市医師会報,265,58−62,平成11.6.15.

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