窓を開ければ アイコンが見えるよ

 

 「窓を開ければ 港が見えるよ メリケン波止場の 灯が見える・・・」と淡谷のり子さんが歌ったのは昭和12年だが、それから60年たった今日この頃は「窓(ウインドウズ95)を開ければ アイコンが見えるよ」である。

 「アイコン」とは「ソフトウエアで、コマンド(命令)や処理を表現するために使用する絵文字のこと」である。

 

 「第1回物語」にちょっと書いたのが、私とコンピュ−タ−との関わりを振り返ってみると、ロックフェラ−財団からの財政援助を受けて大震災がきても絶対大丈夫だといわれた慶應義塾大学医学部の予防医学教室の建物ができて、「リトル・アメリカ」と言われたようにその一部屋に、当時まだ珍しかった「モンロ−の電動計算機」が何台もズラット並んでいて、それを使わせてもらった時からである。

 青森医専には「顕微鏡が全学に一台しかない」とのうわさを聞いたことがあったが、青森から弘前へ移転したあと、その弘前医科大学・弘前大学の衛生学の助教授として私は赴任してきた。

 「衛生学」はその研究の特徴から「計算機」は必要不可欠なものなのだが、衛生学初代の高橋英次先生が苦労して手に入れた「タイガ−の手回し計算機」があった。備品番号は医学部の第2番であった。

 この「落差」は如何ともしがたいものであったが、それから40年たった今、日本の繁栄、技術に支えられて、ここ弘前もほとんど世界と同じレベルにまでになったのではないかとの思いがある。

 30年前アメリカのミネソタ大学にいったときは、ようやく電子計算機が一般化していた。しかしそれはまだ大型で、プログラミングもアルバイトの主婦にやらせていた。お正月に「A Happy New Year」を大きくタイプアウトさせて、教室の黒板に張り出して喜んでいた時代だった。

 

 その後日本の技術が急速に進歩してわれわれでも購入可能な小型の電子計算機が出来てきたが、研究課題に科研費の補助が得られるたびに少しづつそろえることが出来た。

 昭和56.6.15.「科研費による備品の一部として”ミニコンピュ-タ-デスクプレイ”入荷、三上聖治先生早速プログラムにとりくみゲ−ムを楽しむ」と教室日記にあった。

 電子計算機の「言語」もいろいろあって、「Basic」がでてきたときはなんとか自分でもプログラミングがやれそうな気がした。

 NHKが「マイコン入門」の講座を放映し始めた昭和57年、みようみまねで勉強し始めた。これなら今までなかなかやれそうもなかったことが自分でも出来そうな気がした。

 だから「NEC」の「6000」「8000」シリ−ズの次に「9800」シリ−ズができたときには、青森県で一番早い時期に教室で購入し、わが家にも同じものをおいて、それまでにたまっていた資料を計算し始めた。一世代の「9801」であって、なにやかや百万円も投資したが、よく働いてくれた。

 昭和61年退官までの数年間、それまでたまっていたが出来なかった計算をすることができて、「りんごと健康」の最後のまとめのような論文を書くこと出来た(日衛誌,45,954-963,1990)。

 

 昭和56年頃医学部の学生の中にも「マイクロコンピュ−タ−同好会」なるものができた。

 教室の日記をみると学生が教授室の私のところに相談に来ている。

 「部屋をかしてくれないか、秋葉原で器械を買って来たいのだけれど、金がない、月賦で買いたいと思っている」とのことであった。

 「月賦で買うと高いから、立て替えてあげよう」ということになった。手元にあるその時の領収書(16万円、今後1年にわたって返済します)はよき思い出である。

 

 コンピュ−タ−で人口動態統計の図などを書いたとか、弘前医学会例会で発表した。そんなことが出来てうれしくてしょうがなかったのであろう。

 

 退官のときの講演で「今こういうデ−タが全部先ほど申し上げたフロピ−デイスクに入っておりますので、老後の楽しみと言っては申し訳ありませけれどもコンピュ−タ−でいろいろ計算できるのではないかと−−−」と述べたのだが、それから今日までは、もっぱら著書や随筆文を書くための「一太郎」と「マ−ジャン」のソフトを走らせることに日を送ってしまった。

 

 そのコンピュ−タ−が突然「立たなく」なった。「チタン・チタン・タタン」(眼鏡はチタン、入れ歯はチタン、・・・)と十数年前言ったのだが、今度は本当に立たなくなった。それが新しい器械購入の機会ともなったというわけである。ちょうど「美原賞」とか「中冨賞」とか顕彰金を頂いたので助かった。

 前からNECを使っていたので今度も「PC-9821V10」「Windows95」にした。正に一世代から六世代の「今浦島」であって、そこで「窓を開ければアイコンが見えるよ」となった次第である。

 

 昔は自分でしたいことを考えてプログラムを作りコンピュ−タ−を使ったものだと思うのだ、今はすべて出来合いのプログラムが沢山入っている。記憶容量が飛躍的に大きくなったので何でも「セイブ」されていて、PRのようなものまで入っている。この10年間クロネコ・ヤマトの「みんなのワガママ運びます」ではないが、わからないことはみんな「ヘルプ」で説明してくれる。なんのことはない。コンピュ−タの「言葉」を知らなくても「絵」をみて「マウス」で「クリック」すればすべてはこんでくれる。

 その反面プログラム作成の「思想」を読みとろうとすれば頭が痛い。

 でも「一太郎・123をはじめマ−ジャンもトランプのゲ−ム」も入っていて。一日に一回は開いていた「広辞苑」の辞書も、「絵・音入り」で利用できる。そしてとどのつまりは「インタ−ネット」の大網(おおあみ)に知らず知らずとらわれてゆく仕組みになっている。

 今はやりの「インタ−ネット」は大学のほうが一足早く進んいる。

 青木功がシニヤ−でよい成績を出せばそのスコア−は即時みられるし、べ−タ−カロチン投与が害になる可能性があるかもしれないというアメリカの報告(http://www.os.dhhs.gov:80/news/press/1996.html」も発表と同時にみられるし、国立がんセンタ−からの「癌予防12カ条の改訂版」も「http://wwwinfo.ncc.go.jp/」でみられる。

 弘前大学のホ−ムペ−ジは「http://www.hirosaki-u.ac.jp/」で出てくる。それをたどってゆくと「衛生学教室」の記事が入っていて、菅原和夫教授の顔や中路重之君の「ギリシャ・アテネそしてコス」の「J.Phys.Fit.Immunol.」掲載の論文も画面上で見られるしかけになっていることを書いておこう。

 これらはほんどすべて衛生の三上聖治君の手になるのだが、彼は今地域に開かれた弘前大学のこの方面の「相談員」になっている。そして私のコンピュ−タの「先生」でもある。

 この文も新しい一太郎で(以前はJXWだったが今度はJBWになった)で入れているのだが、印刷も早く楽になったことは確かである。

 コンピュ−タは「戦争」によって進歩したと思うが、この10年間は「ゲ−ム」と「ビジネス」に向かっての競争であった。「Basic]から「MS-DOS]へ、「Microsoft」に支配され、ビル・ゲ−ツを世界一の金持ちにしたが、健康情報処理には一向金は動かない。われわれが考案した血圧情報処理の「HMBS」方式に買い手はない。

 計算もワ−プロもゲ−ムも通信もいろいろと自宅で出来る時代になったのはよいのだが、これからはどうなるのであろうか。ペ−パ−レスの時代は来るのであろうか。                (8-3-31)

              (弘前市医師会報,247,66-67,平成8.6.15.)

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